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第4回 2011/11/11

副読本『吹田の文化遺産』

 センターでは、地域学習の副読本教材として『吹田の文化遺産』を制作しました。吹田の歴史を紹介する映像編DVD(18分)と、吹田市内にある指定文化財のほか、有形・無形の文化財や道標、樹木など80件余りの文化遺産を写真・映像と解説で紹介するデータ編CDの2枚組からなっています。

 「吹田の文化遺産」が「都市遺産」?と違和感を持たれる方がいるかもしれません。しかし、吹田の歩みは、都市と深く関わっているのです。

 「吹田」という地名が初めて登場する記録は、東大寺の大仏造営に貢献した奈良時代の高僧行基の伝記です。吹田に堀川を、垂水に布施屋を作ったとあります。この時、行基は吹田以外でも北摂や河内を中心に同様の活動を行っていますが、それらは、聖武天皇による難波宮の造営と関わりがあるとされています。吹田市岸部にある七尾瓦窯でつくられた瓦は難波宮の宮殿に使われました。また、現在の神崎川は、三国川と呼ばれ、長岡京遷都の翌年に開削されました。長岡京や平安京の造営では、物資を運搬するための動脈となり、その後も西国と京都とを結ぶ航路となりました。吹田市岸部の吉志部瓦窯は、平安京造営のための大規模な瓦生産工場です。吉志部瓦窯で作られた瓦が、三国川を遡って平安京に送られていた光景が目に浮かびます。中世には都の貴族や大寺院の荘園が広がり、貴族の別荘地として、都びとの癒しの場となり、江戸時代には、大消費地大阪を支える在郷の町場「在郷町」として大いに賑わいます。当時の文書には「吹田村之儀ハ大郷ニ而、柴薪・雑穀類・味噌・醤油・塩等、何ニよらず、商売家多く御座候ニ付…」とあります。そのため、金子雪操や頼山陽、田能村竹田といった文人たちが訪れ、吹田では豊かな文化が育まれました。

 時代が明治になり、日本が近代化の道を歩む中で、吹田も大きな影響を受けます。吹田駅の開業を皮切りに、大阪麦酒会社の創業、吹田操車場の開設など、交通の要衝として都市のくらしを支えていきます。大正11年(1922)には、大阪市内の人口増加を解消するために千里山住宅地の分譲が始まりますが、この時期は、大阪が「大大阪」時代を迎えようとしていた時期にあたります。第二次世界大戦後の高度経済成長期でも、千里山団地の建設や千里ニュータウンの開発など、吹田は大都市大阪のくらしを支え続けるのです。千里山団地や千里ニュータウンは、日本の集合住宅の先駆けとしてさまざまな試みがなされ、現在の日本人のライフスタイルの原点ともなりました。

 吹田の歩みを振り返ると、大阪・京都という都市の中間に位置するという地理的な環境もあり、その歴史は都市の形成や発展と深く結びついています。その中で、さまざまな文化遺産が育まれ、現在まで守り伝えられてきました。吹田の文化遺産は「都市遺産」なのです。

 副読本『吹田の文化遺産』は、大阪府立図書館・吹田市立図書館で閲覧と貸出ができます。都市とともに歩み育まれてきた、吹田のさまざまな文化遺産に触れてみてください。

   
suita

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