コラム

第19回 2014/11/11

「江戸後期浪花名所図屏風」

ケルン大学名誉教授/センター研究員
  フランツィスカ・エームケ

竹田座

 竹田座 

 新発見の「江戸後期 浪花名所図屏風」は六曲一双で、江戸後期の百以上の浪花名所をパノラマ的に描いている類例の無い唯一の屏風である。一隻の大きさは縁を含めて高さ176cm、長さ375.5cmで、この屏風の保存状態は良く、すばらしい出来映えの名所図屏風である。

 屏風は大坂城、四天王寺、住吉大神社の三大名所を基柱として構成がなされている。左隻は西横堀川から東を俯瞰した構図で、北の天満宮から南の四天王寺までが描かれ、より南と西の大坂は右隻の構図に合一されている。つまり右隻の上部は、今宮蛭子宮から住吉大神社までの南の名所を。下部には、西横堀川から西の名所を描いている。そして大坂の繁栄と河川交通の重要性を強調するため、左隻の大川と右隻の安治川に大きく画面を割き、そこには各種の船が所狭しと描かれている。この屏風は名所が主体なので、各名所の特徴や事実を入念に正確に描写している。

 天満宮

  屏風の四季は、正月に紙鳶揚げ、猿回し、今宮蛭子宮の十日戎祭。春は天満宮の梅、野中の桃畑、桃谷の桃、桜宮の桜、野田の藤。夏は南御堂のサツキツツジ、了徳院と茨住吉社の杜若、阿弥陀池の蓮、それに長岟浦の潮湯である。秋の紅葉と冬の雪は直接には描かれていないが、月見の名所の浮瀬、雪景色の名所の解船町を取り上げている。

  天明三年(1783)に東横堀川入口に架けられた葭屋橋は、船の通行が多いことから、文化元年(1804)の架け替えでは橋脚を無くし、橋脚の無い橋として名所になった。天保九年(1838)の架け替えのときは中央の橋脚一本とした。屏風の葭屋橋には橋脚が無いことから、景観年代をまず1804−1838と限定できる。しかし四天王寺は享和元年(1801)に落雷で焼失、再建は文化九年(1812)。住吉大社は享和二年(1802)に火災で焼失、文化七年(1810)に再建された。また天保八年(1837)の大塩平八郎(1793−1837)の乱で天満宮が焼失し、弘化二年(1845)に再建されているので、景観年代は1812−1837と確定できる。

今後の大坂文化史、建築史、特に名所を研究する上で重要な資料となるだろう。

 

  

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