第6回 2012/7/2
人口から見た<都市>大阪
大阪都市遺産研究センターが開設され、早くも2年が過ぎた。この間、伝統文化や教育・経済といったバラエティに富んだテーマをめぐって研究の蓄積が進みつつある。ところでセンターの名称にもある<都市>としての大阪とは、具体的にどの範囲をさすのだろうか。
江戸時代、都市と農村は支配担当奉行の違いによって、はっきりと分かれていた。すなわち大阪とは「大坂町奉行」が直接支配を行う北組・南組・天満組、いわゆる大坂三郷であり、この区分は東・西・南・北の4つの大組(おおぐみ)を経て大阪市へと引き継がれた。したがって、明治初期においては大阪市域をもって都市部という理解は実態をほぼ反映したものといってよい。
その後、都市化の進展によって大阪市は3度にわたる大規模な市域拡張を行った。とりわけ、1925年(大正14)の第二次市域拡張は都市・大阪にとって大きな意味を持っている。すなわち、西成郡・東成郡44町村を編入した結果、大阪市の人口は211万人を超え、東京市を抜いて日本最大の都市になったからである。いわゆる「大大阪(だいおおさか)」の時代だ。
『大大阪観光地図』(1936年)
もっとも、この時に編入された場所がすべて「都市」的な性格を持っていたわけではない。市域拡張は拡大する大阪市にとって先行投資的な意味も含んでいたので、農村的性格を持つところまでもが市域に組み込まれたからである。その後、戦中から戦後にかけて大阪市では第三次市域拡張を計画し、東は奈良県境、西は尼崎市、北は池田市、さらに南は堺市までを含めるという壮大なプランを打ち出した。結局、この構想は府域が南北に分断されることを恐れた大阪府の反対で小規模なものにとどまったが(1955年、北河内郡1町および中河内郡1町4村を編入)、プラン通りに実現したならば「巨大都市・大阪市」が誕生していたはずである。
大阪市の現在の人口は266万人と、戦前ピークを記録した1840年(昭和15)の325万人の8割ほどにとどまっており、東京都区部、横浜市についで3番目となっている。しかし、人口学では市の人口というような制度的に決まる数字よりも、むしろ境界線に中立な人口集中度によって都市人口を定義することが一般的である。ちなみに、国連の定義にしたがえば、大阪(神戸を含む)は1133万人の人口をもつ世界16位の「都市的集積地域」(urban agglomeration)であり、さらに京都まで加えて1700万人前後の地域として定義する見方もある。このように、都市としての大阪の範囲は時代によって大きく変わってきたのであり、都市遺産をめぐる研究も、時には行政区画を超えた地域も含めて考えねばならないだろう。