コラム

第2回 2011/6/1

中世に美術館が無く、ルネサンスにそれが生まれたのは何故か。

関西大学文学部教授/センター研究員
朝治啓三

大阪府立中央図書館

大阪府立中央図書館

住友コレクション 泉屋博古館分館

住友コレクション 泉屋博古館分館

 中世にも個人の宝物庫はたくさんあったが、一般公開されてはいない。ルネサンス期になっても、例えばフィレンツェのコジモやロレンツォは宝物を持ってはいたが、一般向けに公開されてはいなかった。その息子たちの時代、16世紀以後メディチ家が金持ちではなくなり、都市共和政の代表でもなくなった時点で、彼らの宝物が事務所(ウフィツィ)の建物を利用して公開されることになった。このことが語っているのは、政治権力が一部の権力者の手に握られていた環境の下では公開される美術館は無く、都市民が広く政治に参加する時代に個人の宝物が公共性のあるものとして公開されたということである。個人の美術癖とか、家の課税逃れとかは、公開性の理由としては2次的である。

 わが国でも大倉家がローマでの日本美術展の費用をすべて負担したとか、住友家が大阪府に図書館すべての費用を寄贈したとかの事例がある。それらは、個人の偉さのなせる技として語られているが、そうだろうか。その説明では歴史的理由が語られていない。住友家から府知事への寄贈申し出は明治33年(1900年)になされたが、それは日清戦争と日露戦争の間の時期、開館したのは日英同盟が結ばれた直後の時期である。この歴史的背景を考えると、その寄贈が自家の為でないことはもちろん、大阪府知事から恩顧を引き出すためでもないことがわかる。むしろ時代のニーズに応え、世界の中での大阪の役割を見据えての結論であったといえよう。図書館設置は府民の知的好奇心に応えると同時に、府民全体の未来を開くように、すなわち当時の、そして将来の世界の中で大阪が占めるべき地位に必要な文化施設として実現したのである。この判断は正しかった。すなわち、開館以後継続して入場者数が増加し、その後1922年に、増えた利用者数に合わせて増築され、住友家から追加寄付がなされたのである。このことから、同家から大阪府への寄付は次のような思考が働いた結果ではないかという仮説が成り立つであろう。大阪地域の富は一旦住友家に集約されたが、その成果を受け取る資格はその富を生み出すことに参加したすべての人にあり、それは浪費されるべきではなく、府民の将来の幸せを担保するものへと先行投資されるべきである、という同家の思考である。この決断は衆議していたのでは下されることは難しく、住友家当主春翠の英断でこそなし得る業であろう。

 個人の宝物館と公共美術館・博物館とは原理が異なる。お宝を所有する金持ちが自前で美術館を建てて公開することは、歴史的にもしばしばみられる現象である。入場料収入だけでその館の運営を賄うことは不可能であろうから、その館の設置は資産家の奇特な志の結果であろう。その際、観客の意欲や、社会的ニーズよりも、設置者の志や好みを優先した陳列や図書配架がなされたとすれば、その見学や利用から生み出される結果は、設置者や主催者の思惑通りになるであろうか。

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