高松塚古墳壁画再現展示室
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高松塚古墳壁画再現展示室

(1)高松塚古墳壁画の発見

再現展示室内部昭和47(1972)年の高松塚古墳の発掘調査は、明日香村の村史編纂事業として奈良県橿原考古学研究所によって実施された。この発掘調査は、故網干善教名誉教授(当時助教授)の指揮のもと関西大学考古学研究室の大学院生や学生が参加して行われた。

発掘は、3月1日に開始され、18日には深さ3mの盗掘孔の底に石室を発見した。21日の午前、閉塞石に盗掘の破壊痕を確認し、正午過ぎに網干が石室内部を確かめ、日本で初めて彩色壁画を検出した。

壁画発見直後の高松塚古墳新発見の壁画が、考古学的、文化史的に重大な意義をもち、絵画的にも優れていることがマスコミで大々的に報道された結果、全国的な考古学ブームが巻き起こり、レンタサイクルに乗った家族連れやバックパッカーなど、多数の見学者が現地に詰めかけ、飛鳥の史跡巡りが流行するきっかけとなった。

壁画の発見直後から考古学史上最大の発見として注目を集めた高松塚古墳は、昭和48(1973)年、 特別史跡に指定され、翌年には壁画が国宝に指定された。

(2)関西大学と明日香村

発掘中の高松塚古墳関西大学の初代考古学担当教授であった故末永雅雄(関西大学名誉教授。昭和63年(1988)年文化勲章受賞。奈良県立橿原考古学研究所初代所長)は、戦前に石舞台古墳発掘調査を行うなど、飛鳥地域と深い関係をもたれていた。

その後任の網干善教も、明日香村の出身で、幼少の頃に末永の石舞台古墳発掘調査を見学した経験があり、のちに恩師である末永が所長であった奈良県立橿原考古学研究所の所員として、地元の方々とともに飛鳥京趾や古墳を長年発掘するなど、強いつながりがあった。

発掘調査団の応援に訪れた廣瀬学長網干は、奈良県立橿原考古学研究所と明日香村が実施する発掘に、関西大学考古学研究室を参加させる形で、高松塚古墳のほか、川原寺裏山遺跡や牽午子塚古墳、マルコ山古墳などでも大きな成果を上げている。

日夜発掘調査を続ける学生の健闘を目の当たりして感動した元・関西大学教育後援会会長植田正路氏は、明日香村に教育と研究のための施設があればと、昭和50(1975)年3月、奈良県高市郡明日香村稲淵に関西大学飛鳥文化研究所・植田記念館本館の建築費を寄付された。現在、関西大学飛鳥文化研究所・植田記念館は、関西大学の学術研究と教育、社会連携の一大拠点となっている。

(3)高松塚古墳の現状

高松塚古墳は、壁画の発見直後から考古学史上最大の発見として注目を集め、昭和48年に特別史跡に指定され、翌年には壁画が国宝に指定されている。しかし、劣化が進みやすい漆喰の上に描かれた壁画であることから、一般に公開されることはなかった。

壁画をそのまま現地保存するため、文化庁が施設を設置して石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理と年1回の定期点検を行ってきた。

しかし、その後、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著であることが判明し、平成19年に、高松塚古墳の墳丘を発掘して、石槨そのものの取り出し作業が行われた。解体された石槨は、現在修理施設に搬入され、壁画の修復作業が行われている。

(4)高松塚古墳壁画再現展示室

高松塚古墳は、紀元694年から710年頃に作られた直径20m、高さ約5mのほどの墳丘をもつ古墳である。「高松塚古墳壁画再現展示室」では、この墳丘のイメージをドーム状の透明ガラスで表現し、その中に精緻な美術陶板で再現した壁画を設置している。設置にあたっては、明日香村村長の快諾と株式会社便利堂の協力があった。また、壁画の陶板再現と展示室の建設には、校友の野田順弘氏(株式会社オービック会長兼社長・関西大学客員教授)から格別のご厚意を賜った。さらに文部科学省の研究設備学術補助金を受けた。 それでは「高松塚古墳壁画再現展示室」の見所をご紹介しよう。

墓室の世界

高松塚古墳の石室は凝灰岩製で、長さ2.65m、幅1.03m、高さ1.13mである。床石が4石、北に奥石、東西にそれぞれ3石の側石、さらに4石からなる天井石を敷き並べてのせ、最後に南から閉塞石を嵌め込んで石室を造り上げている。石室は、本来しゃがんだ姿勢でも頭を打つほどの高さしかなく、床も被葬者の棺が納められると一杯になるほど狭い。

「再現展示室」では、見学者が立って壁画が観察できるように床石を取り払って北の奥石と東西の側石部分を持ち上げ、さらに南へ閉塞石をずらした形で再現している。

古墳が作られた時に真っ白だった漆喰は、長い年月のあいだに漏水や腐食が進んで汚れている。中世期の盗掘で痛々しい破壊があったことも看て取れるであろう。
古墳に棺が納められたとき、被葬者の頭は北に、足は南を向いていたとされている。見学の際には、ぜひ奥壁まで進んで南の盗掘孔の方向を向き、天井を仰向いてみてほしい。

天井の天文図と壁の日月像

壁の日月像石室内部全体には、漆喰が2〜7mmの厚さに丁寧に塗られ、東西側壁、北壁と天井に色彩豊かな壁画が描かれている。

まず、天井を見上げると、中央に丸い金箔で星を表し、朱線でつないだ星座がいくつも見つかる。この天文図は、中国の皇帝や占星術師が天命を知るための「分野説」という一種の占星術にしたがって、実際の天文配置を星座(二十八宿)に整理し、四角く配置を変えて描いたものである。

東西側壁の中央上部に描かれる日月像は、金箔と銀箔を丸く貼って太陽と月を表し、東西の方向と地上世界の陰陽秩序を示している。盗掘されたときに削られてしまったが、西の月像にはカエルやウサギなどを描いた痕跡がわずかに残っている。東の日像には、おそらく三本足の鳥(ヤタガラス)が描かれていたと思われる。どちらも雲海に突き出た山頂とともに描かれている。

四神図

北壁と東西側壁の中央を見てみよう。ここには空想上の動物「四神」が描かれている。北壁には「玄武」、東側壁中央には「青龍」、西側壁中央には「白虎」を見ることができる。南壁には「朱雀」があったはずだが、中世期の盗掘で失われている。四神は、龍(青、東、春)、鳥(朱、南、夏)、虎(白、西、秋)、蛇と亀(黒、北、冬)という象徴的な神獣像で、色と方位、季節を顕在化させたものである。これらは、陰陽と五行思想に従って、天と大地を結びつける四方の守護神獣と考えられている。この五行思想から、のちに「青春」や「朱夏」、「白秋」、「玄人」などの言葉が派生したわけで、現代社会でも身近な思想として残っていることに気がつくだろう。

天井の天文図と東西側壁の日月像、四神図は、被葬者の棺を上と四方から包み込んで安静な永遠の眠りを守護している。これらの壁画は、遣隋使・遣唐使が中国から日本に招来させた五行や陰陽、分野説などの宇宙秩序に関する哲学思想によって描かれたことがわかる。高松塚古墳の壁画を見る重要な視点は、中国から東アジアに広く共有された「宇宙」についての思想なのである。

  • 月像
  • 日像
  • 玄武
  • 白虎
  • 青龍

西男女群像

西女子群像壁画発見当時、「飛鳥美人」として注目を集めた女子群像は、西側壁の北側に描かれている。まずは見事な筆運びと鮮やかな色彩を見てほしい。伸びやかな線と緑、黄、紺、朱、桃色が、目に飛び込んで来る。南を向いた先頭の女性が「団扇または翳(さしば)」、三番目の女性が「如意(にょい)(当初は孫の手として使われた威儀具の一種)」を持っている。

西男子群像一方、西側壁南には男子群像が描かれている。一番南の男性は、「胡(こ)床(しょう)(折り畳み式椅子)」を、二番目の男性は武具の入った赤い袋を肩にかついでいる。三番目の男性は首から鞄を提げ、四番目の男性は鞠打ち遊技の「毬(ぎっ)杖(ちょう)」を持っている。

東男女群像

東男子群像東側壁の女子群像も、先頭の女性が「団扇」、四番目の女性が「払子(ほっす)(虫などを払う用具)」を持っている。

東男子群像一方、東側男子群像の一番南に描かれた帽子をかぶった男性は首から鞄を提げ、二番目の男性は深緑色の「蓋(きぬがさ)(日傘)」をしっかりと支えて立ち、貴人の頭上に差し掛ける用意をしている。深緑色の蓋は、養老令(757年)では一位の太政大臣級の官僚に許されるものとされている。三番目の男性は首から鞄を提げて、女子群をふり返っている。四番目の男性は大刀を袋入れして肩にもたせかけている。

出行図

東西側壁に描かれた男女16人の人物群像は、いろいろな遠足用装備を持った供者であり、野外の遊興のため外出する様子を描いた「出行図」の一種と考えられている。供者である男子・女子群像の様子や服装、「蓋」や「団扇」などの持ち物、人数などから被葬者の生前の地位や冨、生活のありさまを窺うこともできる。

東西の男子群像は、墓の主の足元から南の方向にすこし進んで後続を待っている。女子群像は、ちょうど被葬者の頭の横に寄り添い、これから被葬者を促して、南にむかって少しずつ歩き出すように描かれている。女子群像の裳(も)(スカートの一種)の裾が流れるのは、このような人々の動きを墓室の中の静謐な空間に取り込むことによって、墓の主を慰めようとしたのであろう。

(5)壁画の陶板再現

石室の壁画を精緻な美術陶板で製作したのは、大塚オーミ陶業株式会社である。同社は、大塚国際美術館(徳島県鳴門市)に展示されている「最後の晩餐」(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)の修復前後の原寸レプリカを製作した実績を持つ。

高松塚古墳壁画が発見された直後(2〜3日以内)に撮影された写真を、陶器と磁器の中間の性質を持つ焼物の一種である「F器(せっき)」陶板に焼き付けた。原寸大の東壁、南壁、西壁、北壁、天井を製作し、発見当時の壁画の色彩と、はがれ落ちた漆喰などの立体感までもが見事に再現されている。

陶板に再現された壁画は、表面強度があって傷に強いうえ、経年劣化を生じにくいことから、開放的な「高松塚古墳壁画再現展示室」での公開が可能となった。男女人物群像、青龍・玄武・白虎、天文図が、鮮やかな色合いのまま関西大学千里山キャンパスで私たちの目前に蘇っている。

(6)「関西大学高松塚古墳壁画再現展示室」陶板について


大塚オーミ陶業株式会社

この壁画は、陶板(やきもの)で作られている。やきものの里、滋賀県信楽に工場をもつ大塚オーミ陶業(株)が、永い歳月を費やし開発した大型美術陶板(最大で1枚が約90cm×約3m)の技術をもって製作したものである。

今回の高松塚古墳壁画の再現にあたっては、発見当時のあざやかな色彩をできるかぎり忠実に再現することを目的とし、また広く一般に公開し、より多くの人々に間近で触れ親しんでいただきたいとの思いから、再現性と耐久性をかねそなえた大型美術陶板が採用された。

大型美術陶板は、数回にわたる焼成に耐え、かつゆがみのないF器質素材の開発により、従来では不可能とされていた大きな板状のセラミック(陶板)を実現した。また、永年にわたる釉薬、焼成技術などの開発と実績により、色彩の再現性に優れている。1000℃をこえる高温で焼成された陶板は、紫外線などによる色彩の色褪せや変色といった劣化がなく、湿度などの要因で変化することもない。

今回の製作にあたり、様々な資料や監修者の意見、明日香村にある資料館などを訪ね、検証を重ねながら作業を進めてきた。壁画発見当時に撮影された写真をもとに、鮮やかな色彩の男女群像や白虎・玄武などの四神、天井の星宿図の朱線や金までも再現し、漆喰の剥落などの凹凸は、一つひとつ職人の手作業による。また、実際の12枚の石割(最大幅約1m角)を再現し、より実際の石室を体感いただける展示を実現した。

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