『被災地に学ぶプロジェクト』②津波被災地訪問(1日目)

 いよいよ本日より、津波被災地のツアー開始です。今回のコーディネート役は宮城復興支援センター・事務局長の船田究さんが務めて下さいました。
 最初に訪問したのは、マスコミでも頻繁に取り上げられた南三陸町の防災庁舎です。ここで挙式直前の若い女性職員が最後まで津波避難を呼びかけ続け、ご自身が津波の犠牲になられたという話を船田さんから伺いました。そのほかにも多くの職員の方や地元の方がこの建物で亡くなられました。現在は祭壇が用意され、津波被害のシンボル的な存在になっています。
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〈南三陸町防災庁舎。正面に祭壇があります。〉

 その後訪問したのは、「さかなのみうら」という、魚屋さんです。宮城復興支援センターと協力して被災者への物資提供などの支援活動を展開したことから、現在でも多くのボランティアの支援拠点になっています。それと同時に、経営再建に向けて地元産の魚を全国に向けて販売するなどの復興活動にも取り組んでいます。
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〈「さかなのみうら」にて〉

 その後、南三陸町のベイサイドアリーナに立ち寄り、南三陸町の仮設庁舎やWFPなど国際機関から提供されたテントなどを車内から見学します。震災からしばらくは、ここに多くの支援者や被災者が集まり非常に混雑していた様子などが船田さんから紹介されました。アリーナ内部では現在も身元のわからないご遺体の照合作業が警察によって行われているなど、生々しい津波被害の実態も垣間見られました。
 
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〈ベイサイドアリーナ内・身元不明者の掲示〉

 最後に、本日の宿舎であるニュー泊崎荘に到着。ここは地震からしばらく避難施設にもなっていたところだそうです。ここで、近隣の仮設住宅で生活する6人の女性にお話を伺いました。
 それによれば、彼女らが元々暮らしていた泊浜地区は約120世帯程度の集落で、約半数が津波により流失したが、無くなった方はほとんどいないとのこと。それは、チリ地震津波の経験から、とにかく高いところに逃げろと言う教訓が親から伝えられていたからだと言います。避難袋を用意していたが、それを持って逃げる余裕がない、できれば大事な物は避難場所に置いておいた方が良いといった具体的な話も聞かれました。「地震から今までで一番嬉しかったことは何ですか」という質問に対しては「仙台での避難生活から泊崎に戻ってこれたこと」「パートの勤め先から、また働きに来て欲しいと言われたこと」といった答えも聞かれました。 
 
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〈避難所の女性達と記念撮影〉

 宮城復興支援センターによる被災者支援炊き出しで夕食。センターでは、被災者に気遣いを与えないよう、仙台で調理した食事を持ってきて、現地で温めてさりげなく提供するというスタイルの炊き出しを実施しているとのこと。今回もそうやって提供されているカレーや親子丼を、救援物資として配られていたタイ米にかけて頂きました。

 夕食後は、全員で自己紹介です。お題は①仙台までの交通手段、②今回のプログラムに参加した動機、③今日一日の感想、の三つです。
 プログラムに参加した動機は「学生時代にしかやれないことをやっておきたい」「社会安全学部生として、行かなければならないと感じた」といった意見が多く出されました。今日の感想については「言葉を失った」「やばいと思った」「ショックだった」などそれぞれの表現で自らが受けた衝撃を語りました。中には「見るだけではなくて、具体的にボランティアとか具体的な活動がしたかった」という意見もありましたが、逆に「ボランティアでは知ることのできない被害の様子や被災者の体験談などが聞けて有益」という意見もありました。