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【執行部リレーコラム】第3の使命は「社会貢献」か「社会連携」か  〜表現へのこだわりから〜

2019.04.26

 学長 芝井 敬司

 「地域に貢献している、というのはおこがましいですね。地域に大学の資源を提供するのは当たり前のことでしょう。地域とともに大学がある。」

 これは、かつて園田学園の理事長として強力なリーダーシップを発揮された故入谷宣宏氏が、生前に園田学園女子大学が取り組む多彩な地域連携プログラムについて触れた言葉の一つである。大学と地域との関わりのなかで、「大学が貢献する主体となり地域が貢献される客体になる」という権力的なあり方をきっぱりと否定し、両者がフラットな関係を持って「ともにある」ことの重要性を、簡潔に表現している。
 2005年1月の中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」では、教育と研究に並んで「大学の社会貢献機能」が位置づけられていた。教育・研究に並んで「社会貢献」の役割が大学の第3の使命として言及されるきっかけであった。しかしそこで語られる「社会貢献」とは、「地域社会・経済社会・国際社会等、広い意味での社会全体の発展への寄与」であり、その内容は、「当然のことながら、教育や研究それ自体が長期的観点からの社会貢献であるが、近年では、国際協力、公開講座や産学連携等を通じた、より直接的な貢献も求められる」ようになってきたとする。この段階では、社会貢献の内容は、まだまだ貧弱だった。「国際協力、公開講座や産学連携」が社会貢献だと例示するのだから。
 やがて2014年になると、国立大学の3類型の議論が始まる。3類型とは、「世界最高水準の教育研究重点支援拠点」、「特定分野重点支援拠点」、「地域活性化・特定分野重点支援拠点」の3つで、第3の類型の国立大学はローカルな拠点として「地域貢献に重点を置くこと」が求められる。すでに2013年から、地域再生の核となる大学づくりを目指して、「地(知)の拠点整備事業」(COC)が始まり、その公募要領によれば、「自治体等と連携し、全学的に地域を志向した教育・研究・社会貢献を進める大学を支援する」としている。
 こうして大学の地域貢献や社会貢献をめぐる問題は、大学の機能分化や類型化の議論と関わりながら展開し、2015年の「まち・ひと・しごと創生基本方針」において、地方大学は「地方の課題の解決に貢献する取組を促進する」ものとされ、雇用創出・地元定着率の向上に資する取組を全学的に実施することを求められ、地域再生の担い手に位置づけられた。これはまことに、滑稽なほどおかしい。グローバル化の時代に、大学が卒業後の地元定着率を誇るって、いったい何を考えているのかと思わざるを得ない。
 冒頭で紹介したように、「貢献」という言葉には大学人のプライドをくすぐるところがある。地(知)の拠点である大学はその知的資源を地域に還元し、少子高齢化を背景に日本社会が直面する地方の衰退を押し止める「黄金の楯」として、大学の存在意義を最大限発揮してほしいという政策的メッセージである。いや、そんなに暖かいメッセージだけではないだろう。少子化の進行や東京一極集中の激化を背景に、地方大学は地方の課題解決に直結するからこそ存在理由がある。それ以外の役割や機能はムダであって、地方の課題に全学的に取り組むことができないのであれば、運営費交付金や私学助成を通じた国費の投入の意味も見出せない。もはや退場してもらうしかないという脅迫でもある。
 しかし、こうして展開される地域貢献なるものは、やはり「おこがましい」のではないか。地方自治体との連携といっても、所詮、「地(知)の拠点大学」から「上から目線」で与えられる取組・メニューが、地域に根ざした人びとの日常に、真に滋味豊かな栄養を与えてくれるのだろうか。むしろ、ローカル、ナショナル、グローバルの違いを超えて、地域、国家、世界の多様で多彩な大学外部世界と大学とが、連携のつなぎ手を自由に伸ばしていく経験を、両者がたがいに、そして誠実に積み重ねていくことが求められているのではないか。
 そしてその時には、地方や社会とのかかわりにおいて、大学は決して知の独占体ではない。経験の知、現場の知、在野の知、臨床の知、何と形容するかはともかく、社会に知が育まれていることを前提にしなければ、両者の間に真に相互的な関係が成り立つわけではない。大学と社会の間の「知の連携と交流」が求められる所以である。
 それゆえ私は、大学の「社会貢献」ではなく「社会連携」を、「地域貢献」ではなく「地域連携」を表現として選好する。今から10年前の2008年に、関西大学が「研究推進部」「教育推進部」「社会連携部」「国際部」の4部体制をとった時、「社会貢献」ではなく「社会連携」という名称を選んだのは、一つにこうした理由からであった。
 一方で、近年、地方国立大学を中心に「地域」や「地方」を含む「にわか新学部」が乱立するさまを眺めていると、文科省は各大学が自分で選べと言いながら、実際には大学の役割や「貢献」が、実質的に誘導あるいは強制されていると、感じないわけにはいかない。そうやってあてがわれた役割や押し付けられた貢献は、その大学の建学の理念と固く結ばれることはない。大学のパートナーとなることが求められる社会の側も、そうした「権威的な、にわか仕立ての社会貢献」を、その大学にふさわしい独自の使命と認めてはくれないだろう。