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【執行部リレーコラム】「コード」の話

2018.10.26

学長補佐 高作 正博

 「コード」の話題である。が、「高度」な話題ではない。

 1 社会には様々な決まり・ルールがある。「服装コード」もその一つだ。例えば、就職活動の面接では、Tシャツにジーンズは御法度である。仮に、「平服でお越しください」と指定されていても、ひとまずは疑ってかかる必要がある。業界にも依るのかもしれないが、平服は私服とは異なるため、カジュアルすぎないスーツやYシャツ等で行くのが無難であろう。
 しかし、場面によるとはいえ、なぜ、ラフな服装を避けなければならないのか、その理由を説明するのは意外と難しい。「どのような服装を選ぶかは、個人の自由だ」という主張は、鉄壁のディフェンスのようである。就職活動を控えた学生に対し、「その方があなたにとって良いことなんだよ」とパターナリスティックな語りをしても、すぐに納得を得られるとも思えない。そこで、以下では、それでもやはり「個人の自由」という理屈だけで「服装コード」に抵抗するのは難しいこと、また、「服装コード」に従うべきより積極的な理由もありうることを述べてみたい。

 2 まず、「服装コード」に抵抗する根拠として、「個人の自由」では不十分と考える理由を述べよう。ここで、参考となるエピソードがある。私が前任校でお世話になった教員の話である。その方は、授業でも会議でも飲み会の席でも、ずっと帽子をかぶっていた。研究室に行くと、壁一面に数多くの帽子がかけられており、コレクションの展示場さながらの状況であった。同じく同僚であった別の教員は、その姿を見て、ついにハゲたなと感じつつも、「あえて聞かないのが紳士のたしなみと勝手に決め込んだ」という(仲地博「書評・高良鉄美『沖縄から見た平和憲法』」『沖縄タイムス』1997年10月17日夕刊)。
 しかし、帽子には別の理由があったことが、本人の口から語られる。直接のきっかけは、沖縄県議会を帽子をかぶって傍聴しようとしたところ、規則を理由に入場を認められなかったことであった(高良鉄美『僕が帽子をかぶった理由』(クリエイティブ21、2009))。「沖縄県議会傍聴規則」第14条は、「傍聴人は、傍聴席にあるときは、静粛を旨とし、次の事項を守らなければならない」と定め、第4号で「帽子、外とう、襟巻の類を着用しないこと」と規定されている。この規則により、傍聴が認められなかったのである。
 国民主権や民主主義の理念からすれば、国会及び地方議会では、議会の公開が必要であり(憲法第57条第1項、地方自治法第115条第1項)、代表者を監視することは主権者・有権者の権利として認められなければならない。このような理解からすると、特定の服装を理由に傍聴を禁止することは不当ではないか。帽子は、このような傍聴規則に対するプロテストの表現としてかぶり続けられているのである。
 この事例と先に述べた「服装は個人の自由だ」とする主張との決定的な違いは、明らかであろう。帽子の着用には、「自分の自由だから」という理由だけではない「何か」がある。その何かとは、特定のメッセージを伝えるための表現行為としての意味である。「私の服装は、私の表現行為なのだ」と言い切れるほどの主義・主張を持っているならば、「服装コード」に対する抵抗もありうるが、実際はどうであろうか。

 3 また、「服装コード」に従うべきより積極的な理由についても考えてみよう。ここでは、「わたしはだれ?」という問いを解き明かそうとする鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書、1996)の考察を参考に検討する。本書は、その冒頭での期末試験の話から読者をぐいぐい引きつける書物であり、知的好奇心をくすぐられるものであった。「〈大好きだ!〉攻撃」というタイトルのついたある学生の答案に、著者は受講生約400名中の最高点を付けたという。それがなぜなのか、という点は、本書を貫く本質的な問いに密接に結びついているのであるが、「ネタバレ」になるのでここでは触れない。
 重要な点は、自分が何者かを考えるとき、自分一人だけでは「わたし」という存在を捉えることができないということにある。「わたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非‐わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしでありえているのか、という問いと一体をなしている」(49頁)。このことは、人が自らのアイデンティティを認識するためには、他者が存在しなければならないことを意味しているのであり、また、このことは、立場が変わっても当てはまる。他者が自らのアイデンティティを手に入れるためには、わたしを含めた他者が必要となるのである。
 こうして、「わたしはだれ?」という問いに対し、〈他者の他者〉としての自分という解を提示する。その上で、〈他者の他者〉であるということの意味を、さらに具体的な出来事を通して明らかにしていく。例えば、電車の中で、自分を含めた数人の乗客がいるにもかかわらず、バッグから化粧道具を取り出し、なれた手つきで化粧をはじめた若い女性の話(128頁以下)。また、多くの教員が経験していることであろうが、講義中に、授業とは無関係と思われる私語を、時には後ろを向いて続ける学生の話(134頁)。これらの行為が人を不快にさせるとすれば、その理由は、自分という他者の存在を抹消しているからであり、あるいは、そのように振る舞っても構わない相手だと伝えてしまっているからだ。

 4 話を元に戻そう。就職活動の面接をラフな私服で受けるという行為について、「自分の自由だから」という理由で正当化する考え方には、「他者」の存在がない。「他者」の存在を抹消するが故に、面接担当者を不快にさせるのだ。また、「他者」を想定していても、問題は残る。ラフな服装は、自分が他者をそのような服装で対面しても構わない相手だと考えているということを、面接担当者に伝えてしまうのである。「『わたし』のまえに他人がどんな服装をしてあらわれるか、服装にとくにかまうかかまわないかは、『わたし』がそのひとにどのように扱われているのかを、想像以上に繊細に映しだす」(154頁)。「他者」の存在の抹消、また、「他者」に対する自分の態度の伝達可能性こそ、「服装コード」を重視する理由と考えられるのではないか。

 以上、思いの外、長文となり、「コード」のようになってしまった。最後に、急いで付け加えたいのは、「服装コード」が重要であるとしても、それを強制すべきだと主張するものではないという点である。服装は、「他者」に対してどのように受け止められるのかを考えつつ、自らの判断で決めるべきものである。以上の微妙なニュアンスを「他者」である読者が正確に理解しているものと確信しながら、私は、本稿を書いている。故に、私は、「他者」の存在を否定しない。