大学執行部リレーコラム

「権利の概念史シリーズ第2回 iusの客観的意味と主観的意味」 (市原 靖久)

2010.12.22

 近代的「権利」は、フランス語のdroitや英語のrightやオランダ語のregtの訳語として、19世紀後半から用いられるようになったわけであるが、これらの西洋諸語が本来「正直せいちょく」(正しくまっすぐであること)の意味をもっていることについては、津田真道も『泰西国法論』凡例においてふれていた。同じ頃、福沢諭吉も『西洋事情二編』(初版1869年)巻之一「例言」のなかで次のように述べている(「近代デジタルライブラリー」で1898年版福沢全集の本文画像を見ることができる)。

     「ライト」とは元来正直の義なり。漢人の訳にも正の字を用ひ、或は非の字に
     反して是非と対応せしもあり、正理に従て人間の職分を勧め邪悪なきの趣旨なり。
     又此字より転じて、求む可き理と云ふ義に用いることあり。漢訳に達義、通義等
     の字を用ひたれども、詳に解し難し。元来求む可き理とは、催促する筈、又は
     求めて当然のことと云ふ義なり。

 津田も福沢もright(またdroitやregt)の原義を正確に把握していたといえるが、実は、これらの西洋諸語もまた訳語なのであった。すなわち、中世末期から近世初期にかけてのヨーロッパにおいて、これらの西洋諸語が、ラテン語iusの訳語として採用されたのであった。

 中世末期から近世初期にかけてのラテン語ius(jusと表記されることもある)には、二つの意味があった。一は「各人の正当な取り分」という意味(客観的意味)であり、後で見るように、歴史的にはこの意味が先行している(古典古代的意味)。他は「各人の正当な取り分に対して各人がもっている力、権能、支配、処理能力、自由」という意味(主観的意味)であり、この意味は、中世盛期(12世紀後半)以降徐々に、決定的には14世紀に加わったものである。

 iusの原義(古典古代的意味、客観的意味)が「各人の正当な取り分」であることについては、『ローマ法大全』のなかの『学説彙纂』(533年)や『法学提要』(533年)にあらわれる、有名な次の法文を引いておくだけで十分であろう。

     正義は、各人に彼自身のiusを配分する、恒常的で永続的な意思である。

 この法文がいう「正義」の背景には、アリストテレスの正義論における「配分的正義」という考え方が横たわっている。アリストテレスは、正義を一般的正義と特殊的正義に分け、後者をさらに「配分的正義」と「調整的正義」に分けた。そして、アリストテレスによれば、「配分的正義」とは、ポリス構成員各人に、各人にふさわしいものが配分されている状態のことなのであった(『ニコマコス倫理学』第5巻)。

 古代ローマの法学者が上記法文のように正義の意味をとらえたとき、アリストテレスの「配分的正義」の観念が前提となっていた。したがって、そこでのiusは、「社会がその人にふさわしいものと認め、その人に与えた、その人の取り分」という、客観的で具体的な<もの>だったのである。

 iusは、しかし、それを認められ、与えられた当の本人からみれば、つまり、帰属主体の側からこれを主観的にとらえてみれば、「正当かつ当然に自らに属している<もの>」ということになるだろう。そうなれば、それをどう使うかは自分次第という考えに発展していきそうに思える。しかし、少なくとも古代ローマでは、こうした主観的なius概念は理論としては発展することはなかった。iusはあくまでも配分的正義における「各人のもの」、すなわち、社会が当該個人にふさわしいと認め、その人に与えた、その人の取り分を意味したのである。

 こうした古典古代的=客観的ius概念は、ゲルマン的なヨーロッパ中世初期では息を潜めていたが、イスラーム世界での研究を経由してヨーロッパにアリストテレスの全貌が知られるようになる12世紀を経て、アリストテレスのギリシア語原典のラテン語訳が行われるようになる13世紀になると、アリストテレスを高く評価する中世盛期スコラ学最大の哲学者・神学者トマス・アクィナス(1225頃−1274)によって復活されることになる。トマスもまたiusを、「社会がその人にふさわしいものと認め、その人に与えた、その人の取り分」という、客観的で具体的な<もの>と考えた(『神学大全』第2-2部第57問第1項)。

 フランスの法哲学者・ローマ法学者ミシェル・ヴィレー(1914−1988)は、古典古代的=トマス的な客観的ius概念こそが本来のiusであるべきだという立場から、主観的ius概念(各人から導き出される権能としてのius)という「誤解」がいつから生じたのかを明らかにしようとした。ヴィレーによれば、もともとは客観的で具体的な「各人の正当な取り分」という意味であったiusに「各人の正当な取り分に対して各人がもっている権能」という主観的意味をはじめて加えたのは、オッカムのウィリアム(1285−1347)であった。

 フランシスコ会に属していたオッカムは、普遍概念が実在するかという問題については唯名論的立場をとり、知性に対する意志の優位を主張する主意主義者であった。ときあたかも教皇ヨハンネス22世(在位1316−1334)とフランシスコ会のあいだに「清貧論争」が生じており、フランシスコ会は、教皇庁が同会の財産を所有し、同会が使用するとの理解をもとに、清貧(無所有)が完徳に導くと主張したが、ヨハンネス22世は、同会の財産を所有することを拒否し、同会の主張を異端と宣告したのであった(1323年)。この異端宣告によってフランシスコ会の総長は破門・罷免されたが、イングランド、ドイツ、スペインなどの会員からは総長と認められ、オッカムが中心となって教皇との論争が続けられた。

 オッカムはその著『90日の業(わざ)』(1330年)において、フランシスコ会の清貧(無所有)に対する教皇庁側からの批判に次のように反論した。フランシスコ会は修道院財産に対するiusをもっておらず、清貧である。侵害があれば世俗の法廷で裁かれ、物理的実力によって強制を受けるiusこそが本来のiusであり、この意味におけるiusを修道院財産についてもっているのは教皇庁に他ならない、と。オッカムはこのような文脈のなかでiusについて次のようにいった。

     使用することのius(ius utendi)とは、何人も自身の過失なしにまた合理的
     な理由を欠いて、その意に反して奪われてはならない、外部の<もの>を使
     用する適法なpotestas(権能)である。

 ここにおいてiusは、客観的で具体的な<もの>(各人の正当な取り分)ではなく、逆に、その<もの>を使用する人間の「権能」であると、帰属主体である人間の側からとらえられることになった。ヴィレーによればまさしくこのオッカムこそが、主観的ius概念の、したがって近代的「権利」概念の思想的起源だったのである。

 ところが、近年の研究によれば、iusに主観的意味を付加したのはオッカムが最初ではなかったことが明らかにされてきている。それによれば、13世紀にトマスが古典古代的なius概念を復活させるに先んじて、当時の学識法学者、すなわちローマ法学者および教会法(カノン法)学者たちが、iusにすでに主観的な意味を付加していた。

 12世紀のローマ法学者(註釈学者)たちは、ともに他者への義務づけに還元されるという観点から、iusとdominium(所有、支配)を同視した。そうすることにより、まず受動的権利概念を生み出し、さらに、当時の封建的土地所有のなかで、領主・農民間でdominiumが分割され、重畳する状況のなかでdominiumの対象がほぼすべてのものにおよぶことになり、ius概念も拡大されて、もともと個人に備わっている能動的権利として理解されるようになっていった。

 他方で、教会法学者たちは『グラティアヌス教令集』(1140年頃)第1部冒頭に置かれた付言にみえる「自然的ius」(ius naturale)という語の註釈にあたって、iusに新しい意味を付加していった。