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充実の飛鳥史学文学講座 教育後援会 会報編集部

関西大学飛鳥文化研究所と奈良県明日香村との共催で1975(昭和50)年から開催している「飛鳥史学文学講座」。故網干善教名誉教授らによる高松塚古墳の世紀の発見を記念して創設され、今や日本で有数の歴史文化講座となった本講座は、今年で49年目を迎えました。今回は、第5講から第8講までの様子をお伝えいたします。

11/12(日)10:00〜 第5講
新羅月池(雁鴨池)の構造および出土遺物の特徴
関西大学文学部教授 井上主税 ※8/6(日)より延期

苑池に見る日羅の関係と文化の受容のあり方

近年、飛鳥京跡苑池の発掘調査が進み、その全貌が明らかになりつつあります。今回の講義では、朝鮮半島の新羅で発見されている月池(雁鴨池)との比較研究を通じて、当時の倭国と新羅はどのような関係にあったのかについて考察しました。
月池は三国統一期の新羅の都・慶州に造影された苑池で、朝鮮時代に雁鴨池(がんおうち:アナプチ)と呼ばれるようになりました。現在はユネスコ世界文化遺産「慶州歴史地域」の構成資産の1つとなっています。1975(昭和50)年に韓国政府による発掘調査が実施され、その全貌が明らかにされました。護岸の石積、周辺建物跡、地底から発掘された1万5千余点の遺物などから、往時の宮廷生活の様子がうかがうことができます。かさね鋺、匙、花鳥文骨装飾、金銅製鋏など、正倉院宝物と類似したものも発見されており、日羅交流があったことをあらわしています。月池は水深が深く、船を浮かべることもあり、唐の苑池と同様の特徴がありました。一方、日本の飛鳥京跡苑池や平城宮東院庭園などにも唐の苑池の影響は見られますが、洲浜を多用し、水深の浅い構造が特徴の1つとなっています。これらのことから文化の受容には様ざまなレベルがあり、受け入れる側の取捨選択、技術的な限界などもあり、まったく同じものが造営されたわけではないことがわかります。

9/10(日) 第6講
漢字を受容するということ ─古代漢字文化の諸相(三)─
関西大学副学長・文学部教授 藤田髙夫

漢字が古代日本にもたらしたものとは

古事記を編纂した太安万侶は、見事な漢文を使って日本最古とされる書物を後世に遺しました。その中で日本語を漢字で文章化することの難しさに触れており、音訓の訓では大和言葉の意図が正確に伝わらず、音ではただいたずらに長くなってしまうという苦悩を記しています。飛鳥史学文学講座 第6講では、漢字の成り立ちから日本に受け入れられるまでの流れについて解説しました。
漢字が誕生したのは殷王朝の後期(紀元前1300年頃)だと言われています。甲骨文字という象形性の高い文字で、そこから篆書、隷書などを経て、現代において私たちが使っている楷書へとつながっています。日中の接触があったのは隷書が使われていた漢王朝の時代で、漢字がそこに至るまでには長い歴史の蓄積がありました。漢字のシステムには六書という分類があり、その組み合わせによって無数に増えますが、日本に入ってきたのはおよそ数千字であったと考えられています。
古事記では「天地」という漢字を「あめつち」と読んでいますが、これはおそらく天地という漢字の概念に最も近い大和言葉が「あめつち」だったからではないかと考えられます。漢字は大和言葉への「侵入者」だったのか、それとも古代日本にはなかった新しい概念や表現をもたらした「功労者」だったのか。実例を交えながら、歴史の真実に迫りました。

10/8(日) 第7講
湛海律師と公慶上人 ─情熱あふれる近世奈良の高僧─
関西大学文学部教授 長谷洋一

2人の高僧が手掛けた仏像は、奈良に何を遺したのか

近世奈良においては、生駒山の宝山寺の再興、東大寺の大仏と大仏殿の復興という2つの大きな出来事がありました。今回の講義では、これらの出来事の立役者となった湛海律師と公慶上人という2人の高僧に注目し、その人生と後世に遺した功績について解説しました。
生駒山に宝山寺を中興開山した湛海は、18歳で出家して厳しい修行を続けながら諸国を回った後、生駒山に入山したとされています。五大明王像や不動明王像など激しい忿怒像を刻んだことで知られていますが、実はその作品の多くは初代・清水隆慶という仏師が手掛けたと考えられています。しかし、清水隆慶は湛海の死後、仏像制作は行っておらず、湛海が仏師の協力のもと作品を遺し、信仰を今日まで繋いだことに意義があると考えられます。
一方、東大寺の大仏と大仏殿の復興に半生を捧げた公慶は、13歳で東大寺大喜院に入寺しました。戦火で損傷し、復興もままならない東大寺の大仏に心を痛め、大仏殿を造ることを志しました。諸国を回って仏像補修を実現しましたが、大仏殿の完成を前に、病のため宝永2(1705)年58歳で亡くなりました。没後300年以上の今日に至るまで、奈良に全国から大勢の参詣客が訪れるようになったのには、公慶による大仏と大仏殿の再建が大きな功績を果たしたことは言うまでもありません。

11/12(日) 第8講
豊浦宮と小懇田宮を考える
関西大学文学部教授 西本昌弘

飛鳥時代の始まりの地はどう変遷したのか

推古天皇は豊浦宮で592年に即位し、603年に小墾田宮に遷りました。第8講では、豊浦宮と小懇田宮の変遷を追うとともに、近年の研究成果などからその所在地について推定しました。
推古天皇が即位した豊浦宮を造営して以後、飛鳥周辺には王宮が相次いで営まれました。飛鳥の最初の宮殿となった豊浦宮と小墾田宮は、後に寺院に改造され、最古級の尼寺として尊重されました。豊浦宮の跡地は蘇我馬子に譲られて豊浦寺となり、現在の明日香村豊浦には豊浦寺を引き継いだ向原寺があります。1985(昭和60)年の調査では豊浦宮の遺構が発掘されており、現在まで続く系譜の信憑性は高いと考えられます。一方、小墾田宮に関して、旧説では豊浦寺の周辺にあったと考えられてきましたが、近年の研究で「小墾田」「豊浦」は別の地域であった資料が発見されており、その位置については見直されています。1987(昭和62)年の雷丘東方遺跡の調査により、奈良時代の「小治田宮」に関しては、雷丘周辺にあることが確定しましたが、飛鳥時代の「小懇田宮」はどこにあったのかということについては様ざまな説が唱えられています。西本先生の私案では小懇田宮には正宮と東宮があり、正宮は小治田寺に改造されましたが、東宮の場所に新たな小治田宮が造成されたのではないかと推定しています。

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