インド憲法の動態から国の歩みを追う
浅野 宜之 教授

比較憲法、南アジア法に関する研究

インド憲法の動態から国の歩みを追う

法律の視点から南アジア諸国の在り方に迫る

政策創造学部

浅野 宜之 教授

Nobuyuki Asano

各国において、裁判官の任命方法は司法の独立にかかわる重要な問題となっている。特にインドでは、司法の独立が憲法の基本構造であることが強調されており、裁判官の任命に関して、長きにわたり、政府と裁判所との間で綱引きが繰り返されてきた。比較憲法、南アジア法を専門とする浅野宜之教授は、インドをはじめアジア諸国の司法制度に焦点を当て、立憲主義についての研究を進めている。

独立国における最長の成文憲法とは

インド憲法に関心を寄せたきっかけをお聞かせください。

私はカトリックの家庭に育ちましたので、高校時代、将来はイエズス会に入って神父になりたいと思っていました。教会では社会の奉仕活動に関与し、当時、カトリックの「解放の神学」─世界の貧困を見つめ、社会を変えるために神学を生かすという考えに関心がありました。また、通っていた中学・高等学校共にインドとの交流があったため、インドは身近であり、興味のある国でした。
 その後はカトリック大学である上智大学に入り、NGO活動に参加。インドやフィリピンの子供たちに奨学金を届けたり、実際に農村部へ足を運んだりしました。法学部では、法哲学や比較法を学びながらも、インドの法律を深く勉強したかったのですが、当時の日本にはそのような場はなく、一度社会に出てから、アジアの法律に詳しい研究者が名古屋大学へ赴任されたのを機に、大学院へ進んで研究に従事することが叶いました。

インド憲法にはどのような特徴があるのでしょう?

1950年に施行されたインド憲法は、世界の独立国の憲法の中で最も長い成文憲法の一つです。その条文数は400以上に及び、日本国憲法の約4倍。連邦制であるインドには、州・連邦直轄領の行政に関するそれぞれ詳細な規定があり、それらの変更にも対応する必要があります。
 また、憲法に限らず、インドの法制度は周辺諸国に伝播しています。各国の資料があるわけではないので提示は難しいですが、スリランカやバングラデシュなど、南アジアの国々はインド憲法を参考にしている可能性が大きく、ブータンやネパールには憲法制定の際にインドからアドバイザーが訪れて、考え方や言葉の使い方などに多大な影響を与えています。そのため、インド憲法を比較の中心に据えることは、各国のさまざまな事象を見ていくのに適していると言えます。インド憲法の場合は制定した際の議事録が残っており、それを見れば他国のどの条文を参考にしたのかは一目瞭然なのですが。

裁判所が進んで政治や企業にアプローチする

日本もインドの司法制度から学べることはありますか?

インドの司法制度では裁判所が一番重要とされ、裁判所は法律の適用や解釈について比較的柔軟に対応しています。最高裁判所や高等裁判所の裁判官は「裁判所は正義を実現する場だ」「政治家をあまり信頼できない分、自分たちがやる」という思いを持っている人が多く、裁判所が積極的に政治や企業に働きかけることが多々あります。その判断や、日本でも起こり得るさまざまな問題がインドで起こった場合、どう対応しているのかなども参考になります。
 例えば以前、日本で障害のある方が飛行機に搭乗する際、車椅子を降りて自力でタラップを上らなければならなかったというニュースがありました。20年程前にインドでも同じような問題が起こっており、公益訴訟で裁判となり、裁判所から空港システムの改善命令が出ました。インドでは、貧しい、読み書きができない、手段を知らないなどの理由から自力で訴訟できない場合、第三者が代理で訴えるといった、いわゆる原告適格を緩和させた公益訴訟が認められているのです。

インドの公益訴訟は、世界各国でも参考にされそうですね。

公益訴訟の対象は現在、環境問題にまで広がっています。例えば、世界遺産として名高いタージ・マハルは大理石でできており、酸性雨による溶解が問題になっています。そこで「建造物が環境被害を受けているということは、周辺に住んでいる人達も被害を受けている」と裁判が起こされ、これをきっかけに、裁判所は周辺工場に一定の規制をかけるよう政府に命令を出しました。国によって対処は違いますが、こうした判例はある程度参考になるでしょう。
 他にも、政治家が相反する意見のどちらについても票を失うというような場合、判断を委ねるという形で裁判所を利用することもあります。そうした司法府と政府の関係も注目すべきところですね。

大学院生時代に調査のため訪れたインド・オディーシャ州の村(1998年)

転機となった憲法第99次改正

先生は、インド憲法の転機として2014年の憲法第99次改正を分析、研究されています。これはどのような改正だったのですか?

日本では、最高裁判所の裁判官がどのように任命されるのか、あまり知られていませんよね。学生に最高裁長官の名前を尋ねてもほぼ誰も答えられず、その名前が新聞に載ることもほとんどありません。一方、インドでは、頻繁に最高裁長官の発言や最高裁の決定などがメディアに取り上げられ、裁判官の任命も注目されています。憲法第99次改正はその任命方法を変更するというもの。それまでの約20年間は、最高裁長官と何人かの裁判官から成るコレジウムが候補者を推薦し、大統領が任命する形がとられていましたが、この改正により国家裁判官任命委員会(NJAC)を設けて推薦する形に変わりました。

改正後、どのようになったのでしょう?

最高裁長官や裁判官もNJACの構成メンバーに入ってはいますが、司法府が持っていた実質的な任命権限が移譲されたのです。2015年に最高裁は憲法改正とこれに基づく法律についての公益訴訟において、改正は違憲だという判決を下しました。つまり、政府と司法府の意見が対立したのです。違憲となった以上、改正内容をそのまま運用することはできません。しかし、以前のやり方に「ブラックボックスだ」という批判があったのも事実であり、現在はそこを配慮しつつ、これまでのシステムを手直しし、折り合いをつけていく方向に進んでいます。研究の立場からは、その動きを見据えつつ、この判決の位置付けをより明確にしていこうと思っています。

法律は、その国を知るきっかけの一つ

関西大学の政策創造学部は今年4月で10周年を迎えました。アジア諸国の法律を学ぶ意義をどのようにお考えですか?

30数年前と比べ、諸外国、特にアジアの法律を学べる場が増えているようには思えません。他大学でも中国や韓国についての講義はありますが、他のアジア諸国については研究者も少ない。本学の政策創造学部はアジアだけでもタイ、カンボジア、インド、中国、韓国の法に関する講義を設けており、欧米も合わせ、これだけ多くの国々の法について学べる環境を揃えている大学は日本で唯一と言えるでしょう。
 国の在り方を経済や社会、文化の側面から見ることはありますが、法という側面から見ることは多くありません。しかし、憲法はどのような人権をどのような形で保障し、どのように国の運営を進めるのかを示す重要な文書。インドやアジア諸国独自の方法や制度があり、法律を学ぶことはその国や社会の方向性を知る一つのきっかけになります。今の学生は、社会へ出てから仕事や観光などでアジアの国々を訪れる機会が比較的多いはずです。法という観点から国を見て、その在り方を複合的に知ることはとても大切です。

今後の抱負をお聞かせください。

これからも、南アジア諸国の憲法について研究を進めます。トピックはまだまだたくさんありますが、ゼミではブータンを取り上げています。ブータンは君主制国家であり、憲法も非常に面白い。現代の君主国において王様が存在する意義は何かあるわけで、その憲法上の位置付けにも関心があります。国王の存在しないインドをずっと研究してきたので、また別の視点から南アジアの憲法を考察できるでしょう。本学はブータン王立大学と基本協定を締結しているので、交流も進めたいですね。
 また、私は8年程前から、日本貿易振興機構(JETRO)のアジア経済研究所の研究班で障害者法の問題を研究しています。昨年、インドでは新しい障害者法が制定されました。今後の重要な課題として、日本はもちろん、他国とも比較しながら、新制度について考察を深めていきます。