自然の力を生かす酒造りに研究を応用
老川 典夫 教授

D-アミノ酸の定量的解析と生成機構の研究

自然の力を生かす酒造りに研究を応用

D-アミノ酸を強化した機能性食品を分析・開発

化学生命工学部 生命・生物工学科

老川 典夫 教授

Tadao Oikawa

アミノ酸には物理的、化学的な性質が等しいL型とD型がある。生体を構成するアミノ酸はほとんどがL型で、D型は自然にはごくわずかしかない役に立たない成分だと長く見なされていた。ところが、近年の分析技術の進展に伴い、微生物、植物や私たちの身体にもD-アミノ酸が存在し、L型とは異なるさまざまな生理機能を果たしていることが明らかになってきた。老川典夫教授は、D-アミノ酸研究のトップランナーとして、特に発酵食品におけるD-アミノ酸の定量的解析と生成機構の研究で世界をリード。企業と連携して、D-アミノ酸を含む食品の分析・開発にも積極的に取り組んでいる。

産学連携による日本酒が人気

先生の研究成果を反映したお酒が販売されたそうですね。

神戸・灘の老舗、菊正宗酒造から「乳酸菌のお酒 にごりん」というリキュールが飲食店限定で販売されました。2013年春からは炭酸で割って飲みやすくした「あまシュワにごりん」が、コンビニやスーパーで販売されています。
 にごりんにはうまみを強化するD-アスパラギン酸、D-アラニン、D-グルタミン酸などのD-アミノ酸が豊富に含まれていることが、生物系特定産業技術研究支援センターのイノベーション創出基礎的研究推進事業の一環として、私たちと菊正宗酒造の共同研究で明らかになっています。なかでも美肌効果が期待されるD-アスパラギン酸は、マッコリ市販酒5社平均の約44倍も含まれています。肌に良いお酒ということもあって、女性を中心によく飲まれているようです。にごりんは実はD-アミノ酸入りであることを表記した初めての発酵食品です。これがきっかけで多くの人にD-アミノ酸を知っていただければと期待しています。

どんなお酒にD-アミノ酸が多く含まれているのですか?

D-アミノ酸が食品に含まれていても、以前は分析技術が進展しておらず検出できませんでした。そんな中、私たちはいろいろな成分が含まれている日本酒からD型を分離して定量する技術の開発に成功。その技術で分析することで、ヨーグルトや黒酢など、D-アミノ酸を多く含む食品がいろいろあることが分かってきました。
 さらに、私たちは日本全国から約150種の日本酒を取り寄せて分析し、先に述べた酒のうまみを強くする特定のD-アミノ酸がどのようなお酒に多く含まれているかを調べました。その探求の中で、伝統的な製法である生酛造りがD-アミノ酸を増やす製法であることを見つけ出し、特に、乳酸菌が大きく寄与していることを明らかにしました。

150種もの酒の分析は大変な作業だったのでは?

濁った酒や極端にL型が多い酒とか、サンプルごとに異なる前処理をして分析しなければいけないので手間がかかります。アミノ酸はL型が19種、D型が19種、L型D型の区別がないものが1種あり、合計39種について1つの検体で計らなければなりません。1つの検体が1回の分析で終わることはなく、論文を執筆した時にも海外の審査員に「こんな作業をよくやった」と驚かれました。それだけ膨大なデータを蓄積できたおかげで、D-アミノ酸と味の関係を統計的に分析することができました。これは私たちの非常に大きな財産となっています。


  • 老川教授と菊正宗酒造との共同研究によってD-アミノ酸入り商品として上市された『乳酸菌のお酒 にごりん』と『あまシュワにごりん』。生酛で育った天然の乳酸菌によって作られたD-アミノ酸がグラス1杯に5mg含まれている


  • D型及び L型アミノ酸の分析をするために日本全国から取り寄せた日本酒

伝統の酒造りと先端科学のコラボレーション

菊正宗酒造とどのような形で共同研究されているのですか?

酒造メーカーはいろいろありますが、地理的に近く打ち合わせ等もしやすいことと、やはり、菊正宗酒造はほとんどすべての日本酒を生酛で造られていることが共同研究のきっかけになっています。にごりんももちろん生酛造りです。生酛造りは酒蔵に生息している天然の乳酸菌を利用する製法で、大変な時間と労力がかかるため、今ではこの造り方をしている酒造メーカーはわずかしかありません。
 最初は生酛造りの各工程のサンプルを頂いて、どの工程でD-アミノ酸が強化されるのかを調べました。面白い結果が出てくると、先方は更に一層興味を持たれ、共同研究がどんどん進んでいきました。菊正宗酒造としては自分たちが守り続けてきた伝統が、自然の力を利用してうまい酒を造る優れた製法であることの一面を、私たちが科学的に裏付けたことに意義を感じていただいたようです。
 今ではD-アミノ酸を利用した造り方の新しいお酒の開発にも共同で取り組んでいます。生酛造りに関わる乳酸菌の中からD-アミノ酸の生産能の高いものを選抜し、それを使ってD-アミノ酸を強化したうまみの強い日本酒、あるいはアルコールフリーの機能性ドリンクを造ろうとしています。伝統の発酵技術と最先端の分析技術のコラボレーションと言えます。

D-アミノ酸研究の発展と高まる期待

D-アミノ酸に対する関心は高まっていますか?

食品をはじめ、幅広い産業からの注目が集まっているのは確かです。既に美肌効果のあるD-アスパラギン酸を加えた美容飲料が販売されています。私自身、鹿児島の福山黒酢と共同でD-アミノ酸を強化した黒酢の新製品の開発にも取り組んでいます。また、脳に存在するD-セリンは減少すると統合失語症になることが分かっていて、アメリカでは経口投与し、神経疾患の治療薬としての開発が試みられています。D-アミノ酸の研究が進めば、今後、新しい機能が更に明らかになってくると思います。そうなれば、研究成果を活用したさまざまな商品も生まれてくることになるでしょう
 研究では化学、医学、薬学、農学など幅広い分野の研究者が集うD-アミノ酸研究会が約10年前に発足していて、今年9月には本学で開催されます。日本はD-アミノ酸研究では特に進んでいます。それは、本学でも教鞭を執られたことがあり、私の恩師で、日本のD-アミノ酸研究の祖といわれる左右田健次京都大学名誉教授の存在が大きかったと思っています。

研究だけでなく、商品開発など応用についても以前から興味を持っていたのですか?

私はもともと化学を応用して農業の問題を研究する農芸化学の出身で、基礎研究だけでなく応用研究にも関心を持ってきました。私は、商品開発に走るあまり、基礎をおろそかにするのは戒めなければならないと考えています。乳酸菌のどういう酵素がD-アミノ酸を作るのかといった基礎をしっかりと研究し、学術的な裏付けがあって、応用しなければなりません。私が所属する生体分子工学研究室は、生命・生物工学科の中でもサイエンスとテクノロジーの真ん中にある分野に位置する研究室で、基礎と応用の両方を学ぶ研究室です。今後も蓄積した基礎的な技術や知識を社会に反映し、一般の方にも理解してもらえるような形で研究を展開していければと考えています。

農芸化学に興味を持ったきっかけは?

小学生のころから、発酵食品が好きで興味を持ちました。それも、食べるだけでなく、発酵という現象に非常に興味があり、特に酵素を研究してきました。酵素は不思議なタンパク質で、例えば、L型のアミノ酸を化学反応でD型に変えるためには、酸やアルカリを使い熱をかける必要があるのですが、酵素を使えば、常温・常圧・中性付近で進行させることができるのです。

発酵食品好きなら、やはりお酒も好きですか?

好きですけど、あまり飲めないんです。生化学的にアルデヒドデヒドロゲナーゼという酵素がモンゴロイドは弱く、その中でも特に私は弱いようで、これは遺伝的なものかもしれませんね。