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こころの健康に関するコラム
心理臨床家の悩みは深い・・・

 「すこやかにありける人は心強し病みつつあれば我は泣きけり」

こころの健康について考えるとき、長塚節のこの短歌を私は何度思い返してきたでしょう。病気の疑いがある人や病気療養中の人の気持ちをこれほど率直に表している歌を知りません。病気に負けそうな自身の頼りなさ、弱さ、先の見通しのつかない不安、ありとあらゆる不安をかかえながら生きていく日々。病気が重ければ重いほど、治癒の見通しがつかなければつかないほど、将来への希望をもてなくなっていきそうです。

 これは身体の病気にかかっている人だけでなく、こころの病気にかかっている人にも共通することです。私たちがどんな逆境にあってもそれに負けないでくじけないで頑張れるのは、今はどんなにつらくても、その先には今よりも少しは明るい日々が待っているという気持ちがあるからだといわれます。『夜と霧』の著者であるフランクルは、どんな状況にあっても必ず希望の光はあることを私たちに教えてくれています。

 カウンセリングルームに来室されるみなさまは一時的に気持ちが弱くなっておられるのかもしれません。大学院の講義で、臨床心理学ではこころが不調な人に対して、その人がどのような状態にあるかを明らかにし、その人に合った支援の方法を考えると伝えていますが、どんなに綿密にアセスメントを行っても、人のこころはブラックボックスに例えられるように、その人の状態を明らかにするのはなかなかむずかしく思います。でも関わりをもつ中で、来談者ご自身が少しずつ気づいてくださり、カウンセリングは終結します。しかし、そこから私の苦悩が始まります。あの方は今どうしておられるだろう。本当にあれでよかったのだろうか。心理アセスメントや支援を行うようになってずいぶん経ちますが、初めて来談された方を担当してから今日ただ今に至るまで、いつも考えています。

 私の心理臨床家の卵としての初めてのケースは緘黙の幼児でした。年齢よりも大きく見えるのに、50分間のプレイセラピーの間一言も話さず、私の顔を見ることもなく、ただひたすらドアのほうを向いてじっとしていました。セラピーが終わりプレイルームを出ると、保護者とも話すことなくスタスタと帰っていきます。週1回のプレイセラピーの時間中、毎回これを繰り返すのです。そのクライエントの生い立ちや日頃の様子を事前に聞いていたため、覚悟はできていたつもりでしたが、いざそのケースを担当するようになると、なんとも居心地が悪い。このまま変化がなければセラピストとしての技量を問われることになるに違いない。だからといって無理に遊びに誘うなどもってのほか。私は何をすればよいのだろう。どうすれば目の前の子どもは話し始めるであろう。いや話さないまでも遊び始めるようになるだろう。セラピーの間中、私は問答を繰り返していました。その子は1年のセラピーを経て、家でも屋外でも、場所も人も問わず話せるようになりました。セラピーの終結近くになってお母さまから、話せるようになったけど少し無理をしている気がするというお話を伺いました。しかし、セラピーの延長は考えませんでした。

 こころの健康とはいったいどのような状態を表すのでしょうか。平均からの偏りを不調ということがありますが、それは理論上のことです。社会や時代によってもその基準は変動しますが、たとえ平均から少し偏りが見られるとしても、自身の中でバランスを取って生きているのであれば健康と考えてよいのではないか。そう考えるだけでこころが軽くなります。 

 この先も私は来談された方々のことをずっと考えることになるでしょう。個別のケースをいくつ担当してもそれは同じです。晴れときどき曇り、これはこのコラムコーナーのタイトルですが、私のセラピーは曇りときどき晴れ、いや、雨のち曇りやがて晴れなのでしょう。

 前田夕暮の短歌に、「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」という一首があります。この短歌も先ほどの短歌と同様に、繰り返し思い出してきました。未来に向かって希望をもっている歌。長塚節の歌とは対照的な心情をうたった歌。これらの歌こそがこころの状態を表していると思います。こころはいつも穏やかではないかもしれませんが、だからといって絶えず穏やかではないともいえません。その間を行きつ戻りつしながら私たちは暮らしていくのでしょう。少しのことで一喜一憂しないこと、これは懇意にしている先生からいただいた大切なことばです。でも、なかなかこうは参りません。今日もまた、あの人は今どうしているだろうと私は考えています。

 ※ケースは個人情報保護の観点から、一部内容を変更しております。

               関西大学人間健康学部・大学院心理学研究科 教授 北村 由美