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特集1 未来を変える、新しい視点でSDGs を考える
有機と無機、双方の特長を兼ね備えた
脱炭素社会の切り札、「シン・ゼオライト」
環境都市工学部 エネルギー環境・化学工学科 教授 田中 俊輔
堅牢で社会実績のあるゼオライトは安価で安定性があり、長期間使用できる実用的な材料です。
田中俊輔教授は、ゼオライトという物質が持つ、分子やイオンをふるい分けたり(分離・精製)、捕まえたり(貯蔵)、解き放ったり(徐放・放出)する働きに着目。さらに今までとは異なる新しい概念による研究を進めています。
ゼオライトへの材料設計と構造制御技術は、エネルギー効率の向上や環境負荷の低減に貢献し、SDGsの達成にも寄与すると期待されています。田中教授が取り組む研究に迫りました。

吸着材として活用され応用研究が進む「ゼオライト」
ゼオライトとは、どのような物質なのでしょうか。
天然のゼオライトは、ケイ素( Si )とアルミニウム(Al )と酸素(O)からなる鉱物で、地中深くの高温高圧の条件で結晶化してつくられたものです。1756 年に発見されてから研究が始まり、人工的につくられるようになったのが1940 年頃です。1950 年を過ぎてから、商業利用されるようになりました。基本構造となる四面体が連結して組み上がっていて、そこにできる空間が分子を吸着する材料として活用されています。その種類は、天然ゼオライトと合わせて250 以上です。
イオン交換はどうして起こるのでしょう。
ゼオライトは、ケイ素( Si )とアルミニウム(Al)を含む小さな「四面体」のパーツが酸素を介してつながり、立体的な網目のような構造をしています。このとき、ケイ素の一部がアルミニウムに置き換わることで、構造の中に「マイナスの電気(負の電荷)」が生まれます。そのままだと不安定になるため、ゼオライトはまわりから「プラスの電気を持つイオン(カチオン)」を引き寄せてバランスを保とうとします。この性質によって、イオン交換の材料となり得るのです。福島原発事故の際に
は、放射性セシウムイオンの除去にも役立ちました。
簡便かつ低コストで機能性の高いゼオライトを開発
ゼオライトに関し、田中先生はどのような研究に取り組まれているのでしょうか。
古くから工業化され、身の回りにあふれているのは無機物からなるゼオライトです。京都大学の北川進先生が、このゼオライトと同じような配列の結晶構造を金属イオンと有機物でつくり1999 年に発表されました。この功績が認められ、2025 年にノーベル化学賞を受賞されています。
北川先生が作られた材料は、多孔性の配位結合で組み上がっているので、PCP( Porous Coordination Polymer:多孔性配位高分子)と呼ばれ、海外ではその構成要素や構造の観点からMOF( Metal-Organic Framework:金属有機構造体)という呼称が広く用いられています。
無機ゼオライトと一般的にMOF と呼ばれるものに、無機と有機の違いはあるものの、同じような結晶構造で共通項も多くあります。そこで我々は、既存の分類にとらわれることなく、その本質に立ち返り、「ゼオライト」という概念そのものを再定義する立場から研究を進めています。
他の研究者や先生からは、異論もあるかもしれませんが、新たな枠組みを提示することも研究の重要な役割ではないかと考えています。
一般的には無機ゼオライトの方が構造的に強く、耐熱性や水に対する安定性も高いのですが、逆に有機ゼオライトは柔らかく、構造を自由に変形できる特性があります。この特性によって一部の有機ゼオライトは分子を吸着すると膨らみ、それによってさらに吸着量を増やすことができるのです。従来の吸着材は、CO2 など吸着させたいガスの圧力が上がっていくと吸着
量が増え、やがて飽和に達しますが、MOF は、少し圧力を制御するだけで吸着も脱着も簡単に行い、しかもある圧力値で一気に吸着や脱着をしてくれます。一方で、材料コストや製造時の環境負荷が高く、合成プロセスが煩雑だという問題点も抱えています。
そこで我々の研究室では、壊れにくいナノ構造を持つ無機ゼオライトでありながら、ある一定以上の圧力になると選択的にガス分子を吸着するという、構造柔軟性を示すゼオライト(シン・ゼオライト)を開発しました。

▲ 従来のゼオライトはCO2 の吸着量が単調に増加するため、回収時に非常に大きな圧力スイング(高エネルギー)を必要とする課題があったが、シン・ゼオライトはある圧力の閾値でCO2 の吸着量が一気に増加するため、わずかな圧力差を利用して多量のCO2 を分離・回収することが期待できる。
それがシン・ゼオライトというわけですね。製造時の環境負荷問題はいかがですか。
一般的なゼオライトの合成では、有機構造規定剤を使うのですが、高エネルギー・高コストで、環境負荷もかかってしまいます。それに対し水蒸気雰囲気下、すなわち鉱物ができるような地中深くの圧力が高く水蒸気のある条件を真似て既存のゼオライトを処理することで、結晶構造を別の構造へと変化させ新たなゼオライトとして合成することができます。
ゼオライトは先述の通り、四面体がワンセットで連結していく、共通の構造を持っている材料なので、その四面体をいったん解体し、レゴブロックのように組み替えることもできるのです。その特性を活かし、簡便かつ低コストで合成することに注力して研究を進めています。

▲ CO2 の分離・回収システムに、ゲート開閉型吸着ゼオライト= シン・ゼオライトを使えば、従来のゼオライトで必要だった除湿塔やコンプレッサーが不要になるうえ、真空ポンプの小型化も図れる。
低コスト・省エネルギーで純度の高いCO2の分離・回収を
―開発されたシン・ゼオライトは、CO2の回収にも役立つんですか?
排ガスに含まれるCO2 を分離・回収するには、大きく吸収法(物理吸収と化学吸収)、吸着法、膜分離法という3 つの方法があります。物理吸収法は、圧力をかけて液体にCO2 を溶かし、圧力を下げることでCO2 を放出・回収する方法です。ただし、一度の操作で回収できるCO2 の量は少なく、何度も繰り返す必要があり、効率がいいとは言えません。
それに対して、化学反応を伴って、よりCO2 をたくさん溶かして吸収しようというのが化学吸収法です。火力発電所の隣に大きなプラントを建てるなど、実証研究が進められているところです。この方法では、CO2 と反応しやすい「アミン」という有機化合物を使ってCO2 を吸収します。アミンを含む吸収液は非常に高価であるうえ、CO2 を回収するには熱を加える必要があり、多くのエネルギーを消費します。
一方、膜を通過するものと通過しないものにふるい分ける膜分離法は、エネルギー消費を最小限に抑えられる方法です。しかし、回収されるCO2 の純度が十分に高くならないため、合成メタンを製造するなどのCCU(二酸化炭素回収・利用)には不向きです。より高純度を求める場合には吸着法のほうが適しています。
今までの有機ゼオライトを使った吸着法は、これらの課題を克服できるものの、材料コストが高く、それが社会実装の壁になっています。シン・ゼオライトであれば石ころと同じ成分でできるので、材料コストを抑えることができるうえ、化学的に安定であることから、排ガス処理においても長期安定に使用できるという利点があります。
非常に希望のもてる素材ですね。難点はないのでしょうか。
ゼオライトは本来、非常に吸湿性が高く、水分があるとCO2 をほとんど吸着しません。この点が研究での難点の1 つでした。しかし、細孔構造を工夫することで、水分が共存していてもCO2 だけを選んで吸着できる可能性が示されつつあります。シン・ゼオライトは、従来必要とされてきた除湿工程そのものを簡素化できる可能性があります。
さらに、わずかな圧力変化だけでCO2 の吸脱着ができるので、大型のコンプレッサーや真空ポンプも不要です。結果として、エネルギー消費が少なく、シンプルな構造の小型装置でのCO2 回収が実現でき、工場や焼却炉のすぐそばで効率的に排ガスを処理することが可能になります。
ゼオライトの実証研究を進めSDGs の達成に寄与したい
田中先生の研究は、SDGs の目標13「気候変動に具体的な対策を」や目標7「エネルギーをみんなにそしてクリーンに」にも貢献しますよね。
社会に役立てることを研究の一つの目標と考えるなら、SDGs に貢献できるような研究開発も必要だと考えています。とはいえ、実際の排ガスには、研究室では扱えないガスなども含まれているので、CO2 を吸着・脱着してくれるのかは、まだわかりません。大学の規模では、合成できるゼオライトの量には限りがあり、工業的に大量生産する場合に、研究室と同じ手法が通用するのか、同等の性能を持つものがつくれるのかも不明です。こうした課題を検証するために、現在は企業や国の研究機関と共同研究を進めています。
また、現在、研究しているゼオライトの応用先は化学産業に制限せず、エレクトロニクスや医療分野などへも広く展開したいと考えています。
たとえばどんな展開が考えられるのでしょう。
薬を必要な部位に、必要なタイミングで、必要な量だけ届けるDDS(ドラッグデリバリーシステム)への応用がその一つです。副作用のリスクを抑え、薬効を高められるよう、医薬には標的指向性や徐放性のある材料が求められてきました。ゼオライトは、その構造的な安定性や細孔の設計自由度の高さから、有力な薬物輸送担体の候補になり得ると考えています。
ゼオライトは体内に取り入れても排泄されるので、人には無害です。薬剤分子を効率よく取り込み、狙った部分で薬を放出するような制御機能を持たせようと設計しているところです。この取り組みは、SDGs の目標3「すべての人に健康と福祉を」の達成にも寄与できます。ゼオライトの可能性は、まだまだ広げていけると確信しています。
斬新なアプローチを加えることでゼオライトの共有知発展に貢献
田中先生が研究をされるうえで、心がけていらっしゃることは何ですか?
未知の対象に挑戦することを常に意識しながら、世界の誰もが成し得ていない学術的な発見をしたいと願って研究に取り組んでいます。
先人たちの成果、知見に触れて感動しながら、そこにはないアイデアを生み出し、仮説通りにいかない多くの結果を糧に、繰り返し試行錯誤しています。
たとえば構造を組み替えるゼオライトの合成法も昔から使われていた技術
ですが、実際に試してみると、まだまだ簡略化することも可能です。一流誌に掲載されたインパクトの強い研究が主に参照されるため、最適化されていない合成方法が広く使われていることが少なくありません。工学の立場から見れば、そういった合成工程をもっとシンプルにできるんじゃないかと思うわけです。
工学に身を置く者の一人として、「役立つものを実用的につくる」という信念を持っていますので、既存の手法を鵜呑みにするのではなく、斬新なアプローチでより良い課題解決を実現するのが理想ですね。
先生が研究者として成し遂げたい最終的なゴールがあれば教えてください。
まずは興味のある研究を続けていきたいというのが大前提。「役立つものを実用的につくる」という信念のもと、面白いと思って始めた研究が社会実装までつながり、達成するというところまで関わりたいです。
研究活動は、知を紡ぐ作業です。いわば知の構造物をほかの方々がまた違う形の論文にし、共有知を広げていくことにも貢献できればなと願っています。そうして得られた成果を世界に発信し、それがまた世界の他の誰かの研究を進める手がかりとなって人類の共有知を前進させることは大きなやりがいです。
もともと私は、建築学科に進みたかったんですよ。構造をデザインし、素材を組み立てて建築する仕事に憧れがあったわけです。現在手がけているゼオライトの合成も、ある意味ではナノサイズの建造物づくりです。夢が叶っているともいえるわけで、今後もゼオライトの研究を続けていきたいですね。

<プロフィール>
富山県出身。2007 年関西大学へ着任。助教、准教授を経て、2019 年より現職。専門はナノ材料化学、膜材料工学、分離工学。
スポーツ好きで陸上ホッケー部で体育会系の学生生活を送るも、現在はもっぱら観戦側。
休日は3 児の父として奮闘中。
特集2 未来を変える、新しい視点でSDGs を考える
目に見えない「音」で人や社会を豊かに
建築から福祉まで、未来を支える立体音響
環境都市工学部 建築学科 教授 教授 豊田 政弘
私たちは目を閉じても、耳だけで多くの情報を受け取ります。背後から近づく車の気配に気づき、床に落ちた小銭の方向を聞き分け、夜空に広がる花火を音で追うー。
これは私たちが、音から瞬時に空間を把握し、無意識のうちに三次元の「音の地図」を描いているからです。
その人間の能力を工学的に再現し、まだ存在しない空間の響きを設計段階で体験できるようにする「立体音響シミュレータ」。この開発に挑むのが、豊田政弘教授です。
劇場やホールの設計から文化遺産の継承、そして福祉へ。音響科学はいかにして社会を豊かにするのか。
その革新性と展望について伺いました。

耳と脳がつくる立体的な音世界の感覚
まず、「立体音響」とはどのような仕組みなのでしょうか。
人には二つの耳がありますね。右側から音が鳴れば、右耳に先に届き、左耳にはわずかに遅れて到達します。脳はこのごく微細な時間差や音の強弱を瞬時に解析し、「音がどの方向から来たか」を計算しています。さらに、耳の複雑な凹凸がフィルターの役割を果たし、音を微妙に変化させることで、前後や上下の区別まで可能にしているのです。
花火の「ヒュー...ドン」という音だけで空のどの辺りで開いたかがわかるのも、森の中で鳥のさえずりが頭上のあの辺りの枝から降ってくる、と感じられるのも、この「方向定位」という能力のおかげです。こうした高度な情報処理を応用し、人工的に音の発生源を作り出して、あたかもその場にいるかのような三次元的な音の広がりを再現する技術、それが立体音響です。
普段は無意識に使っていますが、実はものすごい能力なんですね。
そうなんです。あまりに当たり前に使っているので意識しませんが、私たちは日常的に音だけで世界を立体的に把握しています。
ところが、CD や配信音源をイヤホンで聴くと、音が頭の中だけで鳴っているような、閉じた感覚になりませんか? 一般的なスピーカーも、基本的には前方の2 か所から音が出る構造なので、後ろや上から音が降ってくることはありません。実世界の豊かな音の広がりに比べると、従来のオーディオ体
験はどうしても平面的なのです。
だからこそ、前後・左右、そして上下を含む全方向から音に包まれる体験を再現する立体音響技術が求められてきました。実際のコンサート会場等では、例えば前方にギター、後方にドラム、斜めの位置からベースが聴こえてくるように、舞台上の音が客席のどこにいても自然に・均等に・豊かに聞こえるようにという目的で、建築形状・素材・天井反射板などがコントロールされています。そうした臨場感のある音や自然な音の配置をどうすれば再現できるのか。私の研究は、そこから始まりました。臨場感のある音は脳や感情に良い刺激を与え、人の心を豊かにする効果も期待されています。
最小限のスピーカーでより豊かな音体験を実現
その「包まれる音」を再現するには、どのような方法があるのでしょうか。
最も一般的なのは、空間の周囲や高さ方向に多数のスピーカーを配置する方法です。音を精密に出し分けることで物理的に音場をつくります。頭を動かしても音の位置が変わらず、複数人で同時に体験できることが利点ですが、設置には広い場所とコストがかかります。
このスピーカー配置型の中で代表的な技術が、「パニング」と「アンビソニックス」です。パニングは古くから使われてきた方法で、複数のスピーカーの音量バランスを調整することで、位置を表現します。たとえば、2 台を「100対0 」で鳴らせば片側から、「50 対50 」なら真ん中から聞こえます。この原理を空間全体に拡張し、空間をスピーカーで三角形の網目のように覆い、その間に音の像を結ばせる技術です。
一方、アンビソニックスは、これとは発想が異なります。パニングがスピーカー同士の連携で「点」をつなぐ技術だとすれば、アンビソニックスは、空間全体の音を「数式」 を用いて記述し、それをスピーカー群で再構築して一つの音場を描き出します。計算は複雑になりますが、すべてのスピーカーを協調させるため、特定のスピーカーの位置に依存せず、より自然で滑らかな立体感を生み出すことができます。
様々な手法がある中で、豊田先生の研究の特徴について教えてください。
できるだけ多くの人に豊かな音体験を提供できるよう、「最小限のスピーカー数で、最大限のリアリティの実現」を目指しているところです。
理想を言えば、スピーカーを20 台、30 台と並べれば音場はより精密になります。しかし一般家庭のリビングや学校の教室に、それだけの機材を導入するのは現実的ではありません。
そこで私たちは、限られた設備で、いかに効率良く立体的な音環境を提供できるかを追究しています。パニングとアンビソニックス、それぞれの再現精度の違いを調査し、長所・短所を把握した上で、目的に応じて最適な手法を組み合わせる。これは単なる技術改良にとどまりません。立体音響のコストを下げ、導入のハードルを下げることは、新たな産業応用や市場の創出にもつながります。今はまさに、精度と実用性のちょうど良いバランスを探っているところです。
設計段階で「未来の音」を聴き、まだ見ぬ響きを確かめる
単にすでにある音を再現するだけでなく、まだ存在しない空間の響きを予測する研究にも取り組んでいるそうですね。
はい、そこが私たちの研究のもう一つの柱です。従来の立体音響技術は、実在するコンサートホールなどで録音した音を、別の場所で再現するものが中心でした。私たちは逆に、まだ存在しないホールの響きをコンピュータ上で予測し、体験できるようにしたいと考え、研究に取り組んでいます。
設計図ができた段階で、「この形状、この壁の材質なら客席でどう響くか」をシミュレーションし、実際に聴いて確認できる。これが立体音響シミュレータです。
設計段階で建物の響きを体感できるとは、驚きです。
建築空間の響きは、形状や内装材、設計・施工の方法によってまるで別物になります。図面やCG を見れば、建物の形や色は視覚的に確認できますが、音の響きは完成してみないとわかりません。特にホールのような大空間では、音は広い周波数帯域であらゆる方向に放たれ、壁や天井で無数に反射を繰り返すため、その挙動を予測するのは至難の業です。
しかも建物が完成してから、「響きが悪い」と気付いても、修正はほぼ不可能です。音響の良し悪しは、ホールの価値を決定づける重要な要素。だからこそ、設計段階で「聴いて確認できる」ことの意義は大きいのです。その体験をもとに設計を見直し、より良いホールの建設に役立てていただく、そういったところで活用されることを期待しています。
速さと精度の両立へ理論を統合した新手法を確立
それほど複雑な音の予測を、どのように実現しているのですか?
音のシミュレーションには、長年解決できないジレンマがありました。大きく二つの理論があり、その一つが「幾何音響理論」です。これは音を光のような「線」として捉え、壁に当たって跳ね返る経路を追跡する方法です。経路の長さから到達時間を、壁の材質から減衰を算出し、最終的に「インパルス応答」と呼ばれるデータにまとめます。これに響きのない環境で録音した声や楽器演奏を掛け合わせると、その空間での聴こえ方を再現できるのです。
計算がシンプルで高速に処理できる反面、低音域のような複雑な挙動を十分に再現できないという限界もあります。
もう一つは、音を空気の「波」として扱い、波動方程式を直接解く「波動音響理論」です。音が壁の裏側に回り込む「回折」まで扱えるので精度は高いのですが、計算に膨大な時間がかかります。もし1 万人規模のホール全体の音響を、この方法だけで正確に解こうとすれば、最新のスーパーコンピュータでも数ヶ月単位の時間がかかってしまうのです。
「速いけど精度に欠ける」か、「正確だけど時間がかかる」か。
究極の選択ですね。
その通りです。しかも厄介なことに、人間の可聴域は、20Hz の低音から20kHz の高音まで非常に幅が広い。低音は波長が長く、障害物を回り込む性質が強い一方、高音は波長が短く光のように直進します。このように挙動が全く違うものを、一つの理論だけで解こうとするから無理が生じるのです。
そこで私たちは、この二つの理論を組み合わせたハイブリッド手法の開発に取り組みました。回り込みやすい低周波数帯は精密な波動音響理論で、直進性が強い高周波数帯は高速な幾何音響理論で計算し分ける。そして最後に、二つの結果を統合するのです。この方法により、大規模なホールでも現実的な時間で高精度な音響予測が可能になり、設計現場で実用できる段階へと近づいています。
プロの演奏家も認めた本物に迫るリアリティ
計算上の数値だけでなく、人間の感性による評価も行われているのでしょうか。
もちろんです。いくら計算上の予測が正しくても、それを立体音響システムで再生し、人間の耳で聴いて「リアルだ」と感じられなければ意味がありません。
検証のため、実験室に6 台のスピーカーを配置し、仮想的な演奏空間を構築しました。この際、限られた設備でも効率よく音場を再現するため、音の方向を明確にするパニングと、空間を包み込む響きをつくるアンビソニックス、それぞれの利点を組み合わせた手法を用いています。そこにプロの演奏家を招き、実際に演奏していただく実験を行いました。
演奏家というのは、ホールの響きを敏感に感じ取り、無意識のうちに演奏方法を微調整するものです。響きが豊かなら音を切り気味に、響きが少ないなら音を伸ばすように、と。そこで、シミュレータで様々なホールの響きを再現しながら弾いてもらったところ、「違和感はほとんどなく、普段通りに演奏できる」という評価をいただくことができました。この成果は、シミュレーションが「プロの演奏家の感性」にも応え得る水準に達しつつあることを示しています。
ここまで成果が積み重なってきた一方で、残されている課題はありますか?
最も難しいのは、「響きの良さ」という主観的なものをどう評価するかです。現在、シミュレーションで多様なパターンの音を再現できますが、「どれが本当にリアルなのか」を厳密に判定するのは容易ではありません。たとえば騒音であれば「何dB 下がった」と数値で表せます。しかし、音楽やホールの響きは好みや感性の世界です。私自身はロック畑の出身で、バンドサウンドにはこだわりがありますが、クラシックの理想の響きを私一人の耳で判断するのは難しいと感じています。
だからこそ、まずは既存のホールを対象に、シミュレーションで再現した音と実際にホールで測定した音を比較し、物理的な誤差を検証して計算モデルの精度を高めています。その上で、ホール設計の専門家に聴いていただき、「こちらの響きの方がリアルに近い」といったフィードバックを得ながら改善を重ねているところです。数値的な正しさと、聴感上の心地よさ。この二つをどう結びつけ、客観的な評価指標として確立していくかが、これからの大きな挑戦です。
もちろん、少ないスピーカーゆえの再現精度の限界や、シミュレーションならではの制約があるのは事実です。とはいえ、すべてを完璧にするよりも、手法を最適に組み合わせることで、コストパフォーマンスを最大化し、多くの人が満足できる、実用性とリアルさのちょうどよい落としどころを見出すことの方が、社会実装においては重要だと考えています。
建築から福祉、エンタメへ音が拓く未知の体験
このシミュレータは、建築設計以外にどのような分野で活用できるのでしょうか。
建築設計の支援はもちろんですが、視点を広げれば、健康や福祉、文化の面でも大きな可能性を秘めています。たとえば、高齢や病気で遠出が難しい方が、自宅にいながらにしてウィーンやベルリンの有名ホールの響きに包まれる体験ができたらどうでしょうか。良質な音体験は心を豊かにし、心身の健康(ウェルビーイング)を支える力になります。
また、老朽化で取り壊される歴史的な劇場やホールの音環境をデジタルアーカイブとして残し、後世に伝えることも可能です。建物はなくなっても、その空間の響きだけは永遠に残す。これは文化継承の新しい形と言えるでしょう。
エンターテインメント分野でも、広がりが期待できそうですね。
VR やメタバースとの相性は抜群です。バーチャル空間でのアバター同士の会話で、相手との距離や方向に応じて音がリアルに変化すれば、没入感は格段に上がります。ゲームの中で背後から忍び寄る敵の気配を感じたり、ライブ配信で客席を自由に移動して「最前列の迫力」と「2 階席の広がり」を聴き比べたり。スポーツ観戦なら、スタジアムのグラウンド中央に立って、
全方向から観客の大歓声に包まれる。そんな選手にしか味わえない体験も可能になるでしょう。
音楽と建築の融合から感性を育み、社会の未来を築く
豊田先生のこれまでの歩みも、今の研究に影響を与えているのでしょうか。
大いに関係していると思います。実は高校時代からずっとドラムを叩いていて、大学でもバンド活動に明け暮れていました。家を建てる時には思い切って防音室をつくってしまったほどで、今でもそこで演奏を楽しんでいます。一方で、学生時代はもともと建築家志望でした。ただ、設計デザインのセンスに限界を感じて悩んでいた時、音と建築を結びつける「建築音響学」と出会い、「これだ! 」と思いました。演奏者としての感性と建築学の視点、この二つが重なり合ったことが、今の研究の原点になっています。
今後の展望をお聞かせください。
将来的には、家庭で気軽に楽しめる立体音響システムを実現したいですね。手頃な価格で提供することで、この技
術を誰もが当たり前に使うインフラのような存在にしたいと考えています。さらに、壁や天井そのものを振動させて音を出すような、新しい音のあり方にも挑戦してみたいです。スピーカーが見当たらないのに、空間全体から音が聴こえる。SF のようですが、決して不可能な話ではありません。
それと同時に、私は長年、騒音予測の研究にも取り組んできました。音は楽しさを生む反面、生活の質を左右するシビアな要素でもあります。たとえば、保育園の園庭や公園で遊ぶ子どもの元気な声を「騒音」にせず、地域と共存させていくこと。そのために、空気や光は通すけれど音だけは遮断するような技術が実現できれば、子どもの健やかな育ちと地域の平穏を両立できます。こうした音の制御もまた、福祉や都市の快適性につながる重要なテーマです。
音を通して、社会課題にもアプローチできるのですね。
ええ。音は人の心身に強く影響します。だからこそ、研究成果を社会に還元できる余地は大きいのです。まだ見ぬ未来の音環境を予測し、それを体験として共有できる。これこそが、立体音響シミュレータの最大の価値です。その技術は、人々の感性を育むと同時に、産業や地域の未来を支える力にもなるはずです。これからも、誰もが豊かな音体験を享受できる未来を思い描きながら、研究を続けていきたいと思います。

<プロフィール>
2011 年4 月より本学建築学科に着任。専門は建築音響工学、なかでも音響数値解析と騒音制御を得意とする。
小中学校時代はバレーボールとバスケットボールに熱中。高校時代に軽音楽部に所属し、バンド活動をスタート。大学進学後は作曲なども手掛けるようになった。しかし、いまだに楽譜は一切読めない。
車とバイクも愛してやまないが、残念ながら今ではただの足となっている。