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画面中央では、下の方に旧淀川(大川)が流れ、その向こうに大坂城と城下町が描かれています。 つまり、北から見た構図ということになります。 ただし、画面右上の住吉大社と四天王寺は西からの構図で描かれています。 また、画面左端の宇治平等院・石清水八幡宮・天王山は、本来なら大坂から大きく距離が離れた場面です。 これらは、屏風の限られた画面におさめるために、金雲で空間を処理するなどして描かれています。
第八扇の最上段に、平等院鳳凰堂と宇治川が描かれています。宇治川には橋が架かり、柴を積んだ船が浮かんでいます。 「宇治の柴船」といえば、「新古今和歌集」に詠まれ、宇治川と柴船は宇治平等院を描くときに組み合わされる画題です。 (写真提供 平等院)
現在の景観と比較
地図上の位置関係
大坂から淀川をさかのぼっていくと、石清水八幡宮(現在の京都府八幡市)があります。石清水への参詣さんけいは、 放生川ほうじょうがわにかかる安居橋あんごばしをわたり、一の鳥居をくぐって山上の本殿へ向かいます。 「豊臣期大坂図屏風」の一番左端にあたる第八扇は、大坂を出て、京にはいるまでの名所が描かれています。
屏風の左端の山は、ひときわ高く描かれています。これは豊臣秀吉が明智光秀を破った合戦で有名な天王山をあらわしたものと考えられています。 山の麓ふもとには塔が描かれています。これは山崎の古刹、宝積寺ほうじゃくじの三重塔です。
大坂城を象徴する五層の天守と廊下橋ろうかばし形式の極楽橋が描かれています。 天守は最上層に廻縁まわりえんと高欄こうらんを備えた「望楼式」ぼうろうしきとよばれる形式で、屏風に描かれている大坂城が豊臣期のものと判断する根拠となります。 極楽橋は花をかたどった文様で装飾されています。こうした大坂城の豪華な極楽橋は、当時日本に訪れたイエスズ会宣教師の報告書に記録が見られます。
聖徳太子の建立と伝えられる四天王寺です。屏風では寺院の建物は簡略化され、石鳥居を象徴的に描いてあらわしています。 この石鳥居は、永仁2年(1294)に、四天王寺の別当であった忍性にんしょうによって建立されたものです。
摂津国一之宮せっつのくにいちのみやとして有名な住吉大社です。 境内の描写はさほど正確なものではありませんが、反橋そりばしと石舞台をシンボル的に描いて住吉大社であることをあらわしています。 神社前の祭行列は、現在も8月1日に行われる、住吉祭の荒和大祓神事あらにごのおおはらいしんじの様子を描いています。
江戸時代、八軒家は大坂と京を結ぶ淀川水運の発着点として賑わいました。 豊臣期の八軒家の様子は不明な点も多いのですが、屏風にも様々な船が行き交う様子が描かれています。 現在の八軒家は、水上バスの発着場となっています。
東横堀川は、豊臣期大坂城を囲む惣構そうがまえの西側の備えとして、天正13年(1585)に掘削くっさくされました。 広大な豊臣期大坂城の規模をしのぶことができる貴重な遺構いこうですが、現在は川の上に阪神高速道路が通っています。
初代エッゲンベルグ候。1625年にエッゲンベルグ城を築きました。
3代エッゲンベルグ候。「豊臣期大坂図屏風」は彼の時期にエッゲンベルグ家の所有になったと考えられています。
城を相続した後、1754~1762年頃に改装を行いました。その際「豊臣期大坂図屏風」は分解され、アジアの美術品をあしらった「インドの間」(当時)の壁にはめ込まれることとなりました。
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