関西大学博物館について

概要

本博物館は、平成6(1994)年4月に博物館法の「博物館相当施設」として開設されました。前身である考古学等資料室は、昭和29(1954)年4月、故末永雅雄名誉教授により開設され、以来、元毎日新聞社社長本山彦一のコレクションを本学に移管するなど、段階的な充実を図ってきました。
考古学、歴史学、民俗学、美術・工芸史学などの分野における重要文化財16点、重要美術品12点を含む膨大な資料を収集・展示し、常設展示と春季の企画展を開催するほか、公開講座などを行っています。
さらに社会貢献活動の一環として、地域の子供たちに施設を開放し、体験型の事業を実施する「キッズミュージアム」(旧称「なんでも相談会」)を夏休みに開催しています。
平成17(2005)年度からは、研究事業として「なにわ・大阪文化遺産学研究センター」が、「文部科学省私立大学学術高度化推進事業、オープン・リサーチ・センター整備事業」に採択され、調査・研究に取り組み大きな成果を生んでいます。
平成19(2007)年7月、本博物館を含む建造物である「関西大学簡文館」が、大学図書館建築として代表的なものの一つであること、昭和42(1967)年に文化勲章を受章した建築家村野藤吾氏の作品であることなどを理由に、「登録有形文化財(建造物)」として文化財登録原簿に登録されました。平成30(2018)年3月には、簡文館が大阪府指定有形文化財(建造物)に指定されました。
平成20(2008)年3月には、故網干善教名誉教授が本学学生を率いて携わった高松塚古墳壁画の発見を顕彰して、原寸大の美術陶板で石室内部を再現した高松塚古墳壁画再現展示室が簡文館前に設置されました。
平成29(2017)年には、それまで文学部にあった古文書室が博物館に移管され、博物館の事業として、古文書の収集・調査・管理を行うこととなりました。古文書室では、本学が所蔵する古文書目録を作成しています。
令和6(2024)年4月、それまで独立した組織であった「なにわ大阪研究センター」と博物館は組織統合を果たし、なにわ大阪研究センター長が新たに置かれた博物館副館長を兼ねる体制となりました。この統合により、博物館とセンターそれぞれが所蔵する学術資源の共有や情報発信の増強など、「大学博物館」としての充実を進めてまいります。

沿革

文化勲章受賞者 故末永雅雄文学部教授に端を発する伝統ある博物館

(1)沿革

昭和27(1952)年、末永雅雄は本学教授に就任し、考古学研究室を開設しました。その直後、毎日新聞社元社長 本山彦一(松蔭)のご遺族から、松蔭翁が蒐集した考古学資料を大学に移管する話があり、後に末永はこう述懐しています。「関西大学に就任当初から、附属博物館の建設と資料の収集の事業を心がけつつ数年を経過した。たまたま私が若いときに整理をしていた、毎日新聞社元社長本山彦一の御逝去後多年にわたる収集品の処置について、二世本山彦一から私に、"父が学界に寄与すべく収集した資料であるから、できるだけ末永の所属する大学にあることが望ましい"との話があった」。このような経緯から、本山家から関西大学に現在「本山コレクション」と呼ばれる資料が移管されることになりました。
大学では博物館構想のもとに当時の図書館(現在の簡文館)の3階にあった考古学研究室(末永研究室)の隣の小規模な部屋をあて、資料の一部を展示しましたが、大半は地下室の倉庫に収蔵されていました。
その頃から学園紛争という危機に直面し、大学が封鎖される事態に陥り、資料の安全を守る為、一時的に大阪市立博物館に保管を依頼し、急遽資料の大部分を運び出しました。
大学紛争も終結の兆しが現われ、昭和49(1974)年大学院学舎の改築を機に、その4階に考古学資料を収蔵・展示し、整理を行う部屋等を設け、仮設ではありますが「関西大学文学部考古学等資料室」として、全学的な理解のもとに運営を始めました。
昭和60(1985)年、関西大学図書館の新築にともなって旧図書館が新しく簡文館と命名され、大学院学舎4階にあった考古学等資料室がこの簡文館に移り、旧図書館の閲覧室の2室を展示室に、図書館収蔵庫の一部を博物館資料収蔵庫に転用し、事務室、実習室などが、簡文館内に設けられることになりました。この施設によって博物館実習や、考古学実習、考古学演習等の関連講義も行うことができるようになりました。
平成6(1994)年には機が熟し、学校法人関西大学寄附行為や考古学資料室等管理運営規程の改正が行われ、博物館法に基づく「関西大学博物館」として相当施設に指定されることになりました。

(2)博物館収蔵資料の由来

本山コレクションの前身は、神田孝平コレクションと呼ばれていました。神田孝平は幕末から明治のはじめにかけての学者であり、啓蒙思想家であると同時に高級官僚でもありました。『世界考古学辞典』(平凡社)や『国史大辞典』(吉川弘文館)などによると、天保元(1830)年9月15日、岐阜県不破郡垂井町に生れ、嘉永2(1849)年江戸に出て、苦学して儒学を修め、ペリー来航を機会に蘭学を学びました。主に数学を習い、文久2(1862)年蕃書調所数学教授出役となり、明治元(1868)年に頭取に就任しました。また経済学にも通じ、明治維新後、集議院判官権大内史を歴任し、明治4(1871)年11月には兵庫県令となり、明治6(1873)年には「明六社」に参加、明治9(1876)年には元老院議官、貴族院議員、明治12(1879)年には東京学士会院会員にもなりました。考古学に対する造詣も深く、明治20(1887)年から28(1895)年にかけて東京人類学会の初代会長をもつとめ、明治31(1898)年7月5日、69歳で逝去。男爵を授与されました。
このような経歴をもつ神田は、考古学の領域では明治18(1885)年に英文の『日本太古石器考』を著わし、自ら積極的に考古学資料を収集し、その資料のもつ価値を『東京人類学会報告』(後に『人類学雑誌』)に発表していました。この時に紹介された資料のなかには、現在関西大学が所有する重要文化財指定の奈良県天理市渋谷出土と伝えられる石枕や青森県西津軽郡木造町にある亀ヶ岡遺跡出土の縄文時代の土偶や、埼玉県熊谷市上中条の人物埴輪などがあります。
この神田コレクションは本山彦一(松蔭)に引き継がれました。本山は嘉永6(1853)年8月14日熊本県に生れ、明治4(1871)年慶應義塾に学び、大阪新報社、時事新報社に入社し、その後一時藤田組の支配人となりましたが、明治22(1889)年大阪毎日新聞の経営に関わり、明治36(1903)年に社長に就任し、毎日新聞の発展につくしました。昭和7(1932)年12月30日逝去、80歳でした。
本山は明治後半から大正・昭和初期にかけて新聞界で活躍する一方、考古学に深い関心をもっていました。そして自ら「三大発掘」と称した大阪府藤井寺市国府遺跡、岡山県笠岡市西大島津雲貝塚、山口県下関市長府鋳銭跡遺跡などの発掘を行いました。これらの遺物の一部は本山コレクションとして関西大学で所蔵しています。

ところで、神田孝平と本山彦一は、どのような機縁があったのでしょうか。両氏の間を取り持った人物は福沢諭吉であったと思われます。 本山は明六社を通じて福沢と関係がありました。また、神田孝平も福沢諭吉と親交があり、かかる人間関係のなかにおいて神田コレクションが本山へと移ったのです。勿論本山は前述の如く河内国府、備中津雲、長門長府をはじめ各地からの収集品も加えています。これらの資料は大阪府堺市の自宅に富民協会農業博物館を設立し保管されてきました。 そのような経緯によって本山コレクションができたのです。本山は、多くの考古学研究者の調査を援助してきました。本山が関係した発掘調査を担当・指揮し、本山コレクションの更なる充実にも寄与したのが、京都大学の浜田耕作博士でした。
浜田博士は明治14(1881)年の大阪府岸和田市生れ、明治42(1909)年より京都大学で考古学を講じ、近代考古学の基礎を確立しました。 本山は自分の蒐集品の整理を浜田博士に依頼し、さらにその命をうけて末永雅雄が作業に当たりました。そして昭和10年『本山考古室要録』が刊行されることになりました。
関西大学博物館は、この本山コレクションや考古学研究室など学内研究組織の活発な研究活動、博物館の主体的な調査研究や収集活動によって、ますますその活動を充実させています。