【関大社会安全学部 リレーコラム】置き換えてはならないもの

新型コロナウイルスの新規感染者数が減り続けています。警戒を緩めてはいけないと思いつつも、穏やかな気持ちで過ごせる日々に喜びを感ぜずにはいられません。
仕事柄、コロナ禍以前は海外出張も多かったのですが、今はすべてがオンラインです。唯一、海外を感じられるのが大学院生と毎週開催しているゼミです。インドネシア、コンゴ、モザンビーク、タイからの留学生たちと、防災・減災に関する議論を重ねています。当たり前ですが、日本の常識は世界の常識ではありません。毎週、多くの気づきを与えてくれます。
モザンビークから来ている学生は文化的な防災・減災の知識に関心を持っています。日本でそれがどのような役割を果たしているのかを知りたいのだそうです。先日、淀川の氾濫リスクがある地域で調査を実施したところ、残念ながらそのような知識に関する話をあまり聞けなかったとのことでした。
文化的な知識は経験に基づいて誕生し、その後に繰り返される災害で有効性が確認されるなどして、経験的に地域で価値が見いだされ、世代を超えて伝承されるものなのだと思います。そうした知識はいつでも当たり前に存在しているものであり、災害が発生するなどしてその価値が問われるたびに、科学的な(あるいは文明的な)知識に置き換えられる可能性に直面しています。つまり、文化的な知識は常に置き換えられる立場にあり、その逆はないということです。
モザンビークとは異なり、日本ではすでに多くの文化的な知識が科学的な知識に置き換わっています。しかし、本来の目的とは違う形で文化的な知識が復活する場合もあります。兵庫県南あわじ市のある地域では、津波の脅威を知らせるために半鐘が使われています。これはかつて火災を知らせるための道具でした。インドネシアでも、竹を使った楽器が避難を知らせるために使われているそうです。
新型コロナは、もともと当たり前にあったものをたくさん別のものに置き換えてしまいました。置き換えられてはならないものはなかったか、今後検証が必要になると思います。
(関西大学社会安全学部教授 奥村与志弘)(2021-11-22・大阪夕刊・国際・3社掲載)