文学部教員コラム
『消えて行く小学校で』
国語国文学専修 教授 吉田 永宏
昨年の11月15日、わたしは兵庫県養父郡関宮町・熊次小学校の講堂にいた。山陰第二の高峰・氷ノ山を背景にした、但馬の山奥の村のその小学校こそ、敗戦の年の3年生からそこに学んだわたしの母校であり、最後の創立記念日に久しぶりの母校を訪ねたというわけであった。
忘れもしない、敗戦の年の3月14日未明のアメリカ空軍B29爆撃機の落とした油脂焼夷弾によって生まれ育った大阪・天王寺の家を焼かれ、わたしの家族は父の故郷である但馬の山峡の村に逃げて行った。3月の中旬だというのに雪が深く、村の2里(8km)手前でバスから降ろされたわたしたちは、膝の辺りまでは優にあった雪に難渋しながら雪路を急いだことを昨日のことのようにはっきりと記憶している。
4月の新年度から、疎開児童であるわたしは村の小学校(当時は国民学校といった)の3年生の一員としてそこに加わった。まだ戦争が続いていて、生まれて初めて鍬を手にして先生に率いられて山の中の松の根を掘らされたことがある。「松根油」というものを採取して、それで軍用機を飛ばすのだというのが先生の説明であり、幼い軍国少年であったわたしは納得し、手にマメを拵えながら懸命に鍬を振るった。後年、開高健の小説「青い月曜日」に松根油掘りの中学生の動員作業が描かれているのを読んだ。
或る日、生徒用の昇降口の黒板に校長先生が何かお書きになっているところに通りかかった。「アメリカのルーズベルト前大統領が死んだ。生きていたら鼻に綱をかけて牛のように運動場を引きずり回してやりたいほど憎いルーズベルトが死んだ。皆さん、日本はもう勝ったも同然です」といった主旨の文章であった。軍国少年のわたしは大きく肯いた。
8月15日正午の天皇の放送を父方の祖母の実家の土間で聴いた。集落の大人は畳の部屋で、子どもたちは土間で、ガーガーピーピーの雑音で聴き取り難いラジオに耳を傾けていたが、最後まで何一つわからなかった。「戦争は終わった。日本は負けた」と父が教えてくれた。何の感慨もなく、村の子どもに交って川に遊びに行った。
その何日か後、運動場に整列したわたしたちに、例の校長先生が、「皆さん、戦争は終わりました。アメリカは民主主義の、よい国です。アメリカと仲良くしましょう」と訓示された。或る日、教室にやって来た6年生のお姉さんたちにわたしたちは教科書に墨を塗ってもらった。戦後教育が始まり、カムカムエブリボディとわたしたちは声を張り上げた。
思い出の小学校は今年度を最後に幕を閉じ、町立の小学校は一つに併合されるという。昨年11月の最後の創立記念日の式典行事(事実上の閉校式)で、校歌の作詞者であるわたしに全校生21人と村の人たちに記念講演をせよとの仰せである。学生時代に作った校歌も50年近くうたわれ続けたが、小学校と運命を共にするわけで、大きな感慨もある。小学1年生から80歳を越すお年寄りまでを聴き手として、育ててもらった村の人たちと村の自然とに対する心からの感謝の思いを込めつつ、先に記したような思い出をわたしは語った。元気いっぱいに校歌をうたってくれた21人の後輩に対する感謝の念であったことは言うまでもない。子どもたちも60分間静かに聴いてくれた。


