文学部教員コラム

第14回 2004/07/21

『南方から来た姪っ子』

                         中国語中国文学専修  助教授  奥村 佳代子

中国で一年間暮らしたことがある。1989年3月から1990年3月まで、北京市民として生活した。中国人とは何の血縁関係もないわたしが、如何にして北京市民となったのか。  当時の中国では中国人と外国人とは歴然とした区別があった。第一に貨幣に中国人用と外国人用とがあったし、ホテルなどの宿泊施設にも外国人用と中国人用(中国人用にはさらに漢民族用や少数民族用もあった)とがあった。中国人と外国人の個人レベルのつきあいも自由ではなかった。たとえば家族ぐるみの付き合いなど普通ならば考えられなかったし、同じ大学に所属する中国人学生と日本人学生との自由な行き来もなかった。そんな時代に中国人家庭でのホームステイが実現したことを話すと、驚く人が多い。  ホストファミリーのBさん一家は60歳代のBさんご夫婦と20歳代の息子さんの3人暮らしだった。中国人の習慣にもとづいて、自分の両親より年上であるBさん夫婦を、敬意と親しみをこめて「伯父さん」「伯母さん」と呼んだ。伯父さんは、外の目や動きに用心の上にも用心を重ねる性質で、なるほどこれで、革命、文革、改革開放と、激動の時代を生き抜いてくることができたのだなあ、と妙に納得したものである。  北京到着後のある日、伯父さんに連れられ「派出所」-日本ならさしづめ市役所の支所のようなものであろうか-へ行った。所長は伯父さんの古い友人であるという。まだ中国語をほとんど聞き取ることができなかったが、わたしのことを説明しているらしかった。所長はふむふむとうなずき奥へ行くと、何やら赤い台帳を手に持って戻ってきた。中身は住民の名前や生年月日が記されたカードだった。つまり戸籍台帳である。Bさん一家の最後に「小佳(漢族)」という人物が新たに加えられた。「佳」はわたしの名前の一文字である。なんとわたしの戸籍を作ってしまったのだ。伯父さんは、「これで大丈夫。他人に何と言われようが、うちに住んでいるのは小佳という漢民族なのだから」とにっこり笑った。  数日後、留学中の滞在先を届け出るため公安局へ行ったが、同じように中国人家庭にお世話になる予定だった友人への答えはノーで、わたしへの答えはイエスだった。本当のところは何が原因でわたしだけが許可されたのかはわからない。友人は大学の留学生寮での生活を余儀なくされた。  わたしは晴れて中国人として中国人家庭に暮らす日本人となった。突然の新しい家族の登場を、伯父さんは隣近所に対して、大学進学のために姪が来ているのだと説明した。中国の南方から来たので標準語がうまく話せないのだ、とも。  外国人というだけで見物に来る人がいるほど、中国では外国人はまだ珍しい時代だった。伯父さんがわたしに対して取った処置は、わたしをごく普通の中国人の好奇の目から守るためだけでなく、そんな好奇な存在と一緒に住む伯父さんの家族を守るためだったのだと思う。  それ以後、中国人として生活するための涙ぐましい日々が始まった。外国人だと見抜かれないようにしなくてはならない。この意識は中国語を話せない者にはたいへんな緊張となった。いつばれるかと(もっともご近所たちは初めからうすうす気づいていたらしかったが)ビクビクしながらの毎日だった。  ただし、中国人のフリを「無言で」することは、会話力を伸ばすことには何の効果もなかった。外国人であることを知られてはいけないという恐れは、ただでさえ緊張と自信のなさから口数が少なくなっていたのを、さらに増長させた。自分の殻に閉じこもるわたしをどう扱ったものか、伯父さん一家も戸惑ったのだろう。ホームステイという会話訓練には格好の環境にありながら、まったく声を出さずに筆談するという事態にまで発展してしまった。  ある日の午後、このままではいけない、何とかしなくてはとわたしは決意し、書斎で書き物をしている伯父さんに近寄っていった。考えておいたセリフの「伯父さん、わたしは中国語を勉強しています。わたしは中国語を聞かなくてはなりません」を、たどたどしい口調で言うと、筆談がすっかり習慣となっていた伯父さんはさっそく鉛筆を手に取り、返事を紙に書いて見せた。いつもなら、ここで終わりだ。  が、わたしは必死になって続けた。「…わたしは中国語を聞かなくてはなりません。書いたら、声に出して読んでください」伯父さんはキョトンとしている。「読んでください」もう一度、紙に書かれた文字を指さしながらそう言うと、「そうか!」とうなずき、傍らにやって来た伯母さんに「小佳は中国語を聞きたいんだよ!われわれと話したいんだ!」と言って、大きな声で一字一字はっきりと読んでくれた。  わたしたちは互いに顔を見あわせ、笑いあった。  それまでの緊張感がスッと消えた。こんなに単純なことなのに、声にして言ったからこそ、こんなにもうちとけ、安心した空気が生まれたのだった。このときほど言葉が通じたことが嬉しかったことはない。中国人のフリはし通せなくても、中国人と心が通いあったと実感した、初めての瞬間だった。この日を境に、わたしは変わったのだと思う。一年が過ぎるころには、「南方から来た姪っ子」がすっかり板についていた。
 15年後、今の学生たちが中国で外国人として中国人の中に溶け込み、生活を共有している姿を目にすると、彼らの自由が羨ましいような、当時の緊張感が懐かしいような、複雑な心境になる。

教員コラム