文学部教員コラム
『困ったときの紙?頼み』
哲学専修 教授 山本 幾生
困ったときに辞書を引くことがある。ちょうど今回のように「コラム」を書かなければならないのにアイデアが枯渇しているとき、ちょっと辞書を引いてみるのである。国語辞典、類語辞典、そして英和辞典や羅英辞典にも手を伸ばす。まさかと思って専門の哲学辞典を繰ってみた。やはり「コラム」という哲学用語はない。ついでに世界人名辞典を開いたら、スペルは違うが「コラム」氏がおられた。結構楽しめるものである。 文字が分からない、意味がわからない、それで辞書を引くのではない。誰であれ困ったときは何かにすがりたくなる。それが親であったり、友人であったり、あるいはお金であったり、地位であったり、そして神や神々であったりする。人によって、また時と状況に応じて、それは千差万別であろう。その中の一つに辞書があってもよかろう。ただし電子媒体ではない。紙媒体の辞書でないといけない。ぱらぱらと紙を捲る、あのほんの僅かの〈間〉が、困った時を楽しい時に変えてくれるのだ。 きっかけは仕事で原稿を書くときなど、行き詰まったときが多い。しかし言葉を手繰り寄せて辞書の叢林に分け入るうちに、仕事のことなどすっかり忘れてしまうのが常である。そこには子供が語呂合わせを面白がるのと同じような遊び心があるからかもしれない。子供の遊びは切りがない。しかも活き活きしている。遊びの中で言葉も生きている。それは無駄な余地として残された自由な〈遊び〉だからでもあろう。逆に、遊び心がないと言葉は死んでしまうのかもしれない。なるほど、歯車の噛み合わせにほんの僅かの〈遊び〉がないと歯車は動かなくなってしまう。言葉を使うことが勉強や仕事になるにつれ、辞書もより早い電子媒体の辞書となり、膨大なテキストさえも一枚のCDRomに収まり検索も瞬時に可能となったが、言葉が味気のないものになってしまったように思える。学問もひどく〈窮屈〉になってしまった。〈遊び〉がなくなったからであろうか。 「学問とは・・」と大上段に構えるつもりはない。ただ、言葉との遊びが活き活きしていれば、学ぶことも楽しいはずである。しかも誰もが学ぶことの楽しさを味わったことがあるはずである。少しだけ子供の頃を思い起こしてみればよい。誰の心の中にもあるちょっとした〈遊び〉に風が囁きかけるような楽しさ。それは鉄棒で初めて逆上がりができたときの、あの、ふわーと宙に浮いた心地よさであろうか、それとも、・・・ ・・・と、空想の中に言葉を遊ばせているうちに「コラム」が出来上がった。やはり、辞書は引いてみるものである。電子辞書ではない。あてどもなく一枚一枚繰ってゆく、あの〈遊び〉が、困ったときの紙頼みなのである。


