文学部教員コラム
映画『トーク・トゥ・ハー』
フランス語フランス文学専修 教 授 奥 純
久しぶりに映画を観た。スペイン映画『トーク・トゥ・ハー』。日本の首相まで忙しいのにわざわざ観に出かけたというだけあって、確かに良い映画だった。事故に遭って昏睡状態に陥った女性を何年も看護し続けるうちに禁断の道に踏み込んでしまう介護士の話。
もちろん、この映画について、リアリティーに関して問題があることは誰の目にも明らかだと思う。医療技術がいかに進歩していても、無理に生命を維持された身体は変形しひどく傷つく。あんな奇麗な身体をそのままに4年も維持できるはずががないが、しかし、そういうリアリティばかりを映画に求めること自体が間違いだろう。この映画のリアリティは、まさにその題名になっているように、多分「語りかける」というところにあるのだと思う。
私が大学院生の頃、指導教授が脳梗塞で倒れた。暑い夏のことだった。深い昏睡状態に陥ったまま7年後に亡くなったが、先生の妻も、映画に出てくる介護士と同じように、看病をしながらいつも先生に語りかけておられた。痛くないか、暑くないか、今起こっていること、昨日起こったこと、楽しかった思い出、明日の予定などなど。あの7年の間にどれほどの言葉が語られたことか。しかし映画の介護士は人に批判される。「そんなもの、ただの独り言にすぎないんだよ。」そうだろうか。先生の病室には、ご夫妻の愛情に満ちた濃密な時間が流れていたのだ。
小川洋子の小説『凍りついた香り』には、自殺した息子が残したトロフィーを何度も何度も磨きながら、今は亡き息子に語りかける母親が登場する。いや、それ以前に、この作品全体が、主人公の女性の、突然自殺してしまった恋人に対する問いかけに満ちた作品だった。お祈りの言葉なども含めて、このように一人で語られる言葉は、そこに強い思いが込められているが故に、時には異常性を帯びることもある。しかし、世界は、実はこうした言葉に充ち満ちているのである。それがすべて意味のないことだとは決して思えない。
映画の物語は複雑な展開をし、最後にその女性はほとんどもとままの姿で蘇る。そんなことは奇跡でも起こらない限り実際には不可能だろう。しかし、それでも語りかけ続けることが大切なのだと思う。それこそが唯一の救いであり、また、それがなければきっと何も生まれては来ないからだ。
今、現在も、病院にいて同じような状況で看病されている方も大勢いらっしゃることだろう。禁断の愛の物語も映画の演出としては悪くはないが、この機会に、医療とは何なのか、人の生とは死とは何なのか、今一度考えてみようと思う。これもまた決して無駄なことではない、結論は見つかりそうにないが。

