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【執行部リレーコラム】「ポツンと一軒家」?

2020.03.27

 副学長 良永 康平

 「ポツンと一軒家」(テレビ朝日系列)というテレビ番組が人気を博している。視聴率ランキングを見ると、確かにバラエティのみならずニュース、スポーツ番組と比べても絶えず上位に位置している。しかも日曜夜のゴールデンタイムに、NHKの大河ドラマを抑えて高視聴率を上げているというのは驚異である。
内容は、衛星画像から人里離れた一軒家を日本全国から探し出し、そこを訪ねて行って、生活や仕事、家族や暮らしについて、来し方を含めインタビューするといったものである。番組が有名になったせいか、突然取材に訪ねて行っても、「なんでこんなところにテレビが来た?」と驚く人は少なく、「とうとう自分のところにも回って来たか」という反応が多いのも面白い。
 しかし割と地味なこんな番組を、なぜ世間の人はよく見ているのだろうか。どこにその魅力があるのだろうか。インフラが発達した今日の日本において、その利便性からかけ離れた「ありえへん」生活を今でもしている人がいると知って、それが物珍しさからさらに好奇心を掻き立てるのかもしれない。つまり、こんなに便利な生活を拒絶するかのような生活をわざわざ続けている人って、一体どんな人なのだろうかという興味・関心である。あるいはまた、「都会に出た自分たちも、昔は確かにこういう生活をしていたな」というノスタルジー(郷愁)を感じている人もいるのかもしれない。「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」といった唱歌の世界を懐かしむ気持ちも大いに理解できる。さらには、都会に生まれ都会に育った者にとっても、普段囲まれている雑然とした無機質な都市環境ではなく、木漏れ日の射す森林や小川のせせらぎといったDNAに擦り込まれた原風景に、何となく安らぎや安心感を覚え、毎週視ることになるのかもしれない。
 そしていま、ポツンと一軒家があるような里山が様々な意味で問われているのである。国土の7割近くが森林に覆われている日本では、昔から里地里山が住処であるとともに、生産現場や資源採取場でもあったのだ。それがエネルギー転換によって木炭や石炭から石油にシフトし、また食料や木材等の生産も輸入の増大とともに衰退の一途を辿ることになる。その結果地域経済の疲弊が目立つようになり、地域人口の転出と減少も始まり今日に至っている。昨今では「限界集落」という言葉も定着し、『地方消滅』に類する書籍も多々出版されている。
 新自由主義的な学者のなかには、「地方の衰退はそれなりの理由があるからなのであって、抜本的な対策は無理だしその必要もない」という見解の者もいる。しかしそれでは里山は崩壊してしまう。本当にそれで良いのだろうか。実は里山と都会は分離独立しているのではなく、社会経済的にも、環境の点でも繋がっているのである。里山が崩壊すると単にそれだけに留まらずに、いずれ必ず都会にも悪影響が出てくる。例えば過疎化して森林の除伐・間伐等の手入れが出来なくなると、森林は鬱蒼としてきて風通しも採光状態も悪くなり、樹木は痩せ細り、「緑のダム」といわれる森林の保水機能や山崩れ防止機能が低下する。そしてそれが台風時の都市洪水や、逆に日照りによる渇水も惹起することになる。
 また、都市が排出する二酸化炭素を吸収するのも、田舎の里山や里海である。穀物や畜産物、特用林産物といった食料も都市だけで生産できるわけではなく、田舎に大きく依存している。
 このように、都市は都市だけで成り立っているのではない。田舎あっての都市でもあることを再認識すべきである。終戦後の食糧難の時代、都市の生活難民が着物等の有価物を持って、田舎に食料を分けてもらいに行ったことを想起するだけでも、都市の脆弱性は納得できる。
 昨年秋、井上岳一氏の『日本列島回復論』(新潮選書)が出版された。「この国で生き続けるために」と副題を付けられた本書は、様々な点で示唆に富んでいる。氏は里山のことを「山水郷」と呼ぶが、その山水郷が歴史的にどれほど重要な日本社会の基盤であり、発展を支え続けたのか、そしてそれがどのように衰退していったのかをまずは解明している。その上で、交通・通信網の発達や「つながり」への憧れといった若い世代のライフスタイルや価値観の変化もあって、最近では若者も企業も徐々に山水郷に回帰しつつあるという。山水郷こそが生き心地の良い社会であり、それを引き受け生きてゆくことに「次の社会の物語」を読み解く鍵があるという。
 本書を読むと、「ポツンと一軒家」が流行る背景が何となく見えてきた気がする。何か無性に山水郷を散策したくなってきた。


日本列島回復論(新潮選書)
日本列島回復論(新潮選書)