大学執行部リレーコラム

自分史としての100周年

2022.01.18

 コラムの続きは前回筆を置いたところから始めるべきなのですが、2022年が関西大学のさまざまな100周年に当たるということを受けて、自分史としての100周年について書かせていただこうと思います。と言いましても、まだ還暦を少し過ぎたところですから、私自身のものではなく、家族史としての100周年というほうが正確かもしれません。
 20年少し前になりますが、関西大学に着任することが決まった時、母にそのことを伝えると、思いがけない言葉が返ってきました――関西大学は自分の父、つまり私の祖父の母校である。母がまだ4歳の時に他界した祖父は、私にとっては会ったことのない、写真の中だけの人物です。仏壇の写真の中の祖父は、ワイシャツの袖を折り上げた軽快な姿でビルの屋上に座って、いつも私を見守ってくれていました。
母が祖母から聞いた話では、祖父は逓信省の技術者として働きながら夜間の関西大学で法律を勉強し、高等文官の試験を目指していたとのこと。ということは、まさに私が着任することになっていた法学部の前身で学んでいたわけです。なんというご縁でしょう。
 前回のコラムで触れた学長補佐をしておりました時に、そんな関西大学とのご縁の話をしたところ、思いがけず祖父の学籍簿の写しを頂戴することができました。入学が大正11年(1922年)、卒業が大正14年(1925年)。つまり、今からちょうど100年前に、祖父は関西大学に入学したということになります。帰省の際に母が見せてくれたのが、祖父の身分証明書(写真)です。戦時中も祖母が肌身離さず大切に守った遺品の一つである身分証明書には、山岡順太郎学長のお名前が印字されています。年史編纂室の資料から『千里山学報』28号(大正14年4月15日刊行)を開いてみると、確かに新校友の住所録に専門部法律学科の卒業生として、祖父の名前を見つけることができました。ただし、専門部の学舎は福島にあったため、千里山に通うことはなかったそうです。
 高知の実家が倒産し大阪に出てきて、働きながら法律を学んでいた祖父は、どのような科目を、どのような先生から、どのような夢を抱きながら学んでいたのだろう――タイムマシンがあるならば、100年前の関西大学に戻って、普段授業をしている教室の中で、祖父と孫として、同時に法学部の学生と教員として、聞いてみたいと思うことは尽きません。祖父も、自分の孫がこの学び舎で100年後に教員をしているとは思いもしなかったでしょう。
 大学昇格、千里山移転、学の実化と、さまざまな100周年を迎えた関西大学のキャンパスでは、記念の行事が秋まで続きます。関西大学がこの100年の間に、どのように発展をしてきたのかを振り返ると同時に、これから先、どのように進んでいくべきかを考える機会が多々あります。そうした大きな枠組みで積み重ねられていく大学の歴史には、その時々にキャンパスで学んだ個々の学生の、そしてその家族という小さな枠組みでの歴史も、同時に刻みこまれていくのですね。
 次の100年が経過した時、学生や同僚のみなさんと過ごしているこのキャンパスでの日常が、それぞれにご縁のある方々から懐かしく振り返ってもらえることを期待して、筆を置かせていただきます。
                                    副学長 大津留(北川)智恵子

*史料の確認のため、年史編纂室の熊博毅さんと植田昌孝さんに、ご多忙な中お時間を頂戴したことに御礼申し上げます。


身分証明書
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