増山  忠次

(1881〜1943)

専務理事

明治14年(1881)1月4日山口県に生れる。
在学中に高等文官試験に合格、明治37年、京都帝国大学法科を卒業。司法官試補を経て、明治39年、神戸地方裁判所判事となったが、ゆえあって退官。直ちに、大阪株式取引所に入社した。のち副支配人を経て常務理事となり、 財界人として高名を博した。 この間、大正9年、政府から派遣されて、米国の取引所制度を視察のため渡米。
 昭和13年、関西大学経商学部で「市場論・取引所論」を講義した。昭和2年の紛争で辞任した宮島綱男専務理事の後任として同年12月、専務理事に選任された。以来、10数年間大学経営の敏腕を振う。即ち昭和3年、天六学舎の建設、昭和4年、昼間専門部の設置、昭和8年の文科廃止反対運動創立50周年式典の挙行等々。
 昭和11年、日本競馬会の常務理事就任のため本学専務理事を辞任したが、その後も監事・協議員として残り、本学発展のために貢献した。昭和18年、本学理事会の席上で倒れ、昭和18年(1943)7月28日没した。62 歳