手塚 太郎

(1862〜1932)

創立者 講師 司法官

文久2年(1862)1月16日、東京に生れる。
東京外国語学校を経て明治13年、司法省法学校2期生に編入。明治17年、卒業と同時に司法省御用掛となり、法学校のフランス人教師アリヴェーの通訳を務める。同年12月、法学校の廃止に伴い、残務整理にあたる。
 明治19年、千葉始審裁判所詰の検事となり、ついで大阪始審裁判所に転じて来阪、関西法律学校創立のことにあずかる。
 明治25年、大津地方裁判所検事正に転ずるまで本校の教壇に立ち、法 律大意や民法、経済学等を講ずる。 
 その後、函館地方裁判所、仙台地方裁判所長を経て明治34年、大阪地方裁判所検事正となり、さらに名古屋控訴院検事長を経て大正2年、長崎控訴院長となり、大正14年の退職までその官にある。晩年は宝塚に住み、昭和7年(1932)11月19日没した。70歳