渋川 忠二郎

(1854〜1925)

創立関係者 弁護士

嘉永7年(1854)4月21日、島根県に生れる。
15歳で藩の鼓笛兵として奥羽戦争に従軍。帰国後、藩のお雇いフランス人にフランス語や医学等を学び、さらに横浜の高島塾、京都仏学校、東京番町の中江塾でも学ぶ。明治8年、司法省に仕え、大阪上等裁判所の書記となり、もっぱら上等裁判所顧問のリップマンやベーネの通訳を務める。
 明治16年に退官し、明治18年に代言人となる。これより先、明治15年、河津祐之や小村寿太郎らとともに、大阪における法学教育機関の嚆矢である大阪法学舎を創立し、舎主となる。明治21年春から関西法律学校講師となり、民法売買編等を担当する。
 明治28年には本校評議員、明治33年には社団法人社員、明治35年には募金専務委員、大正9年には協議員になるなど、終始、本学の発展に寄与する。また、明治39年には大阪弁護士会会長となる。大正14年(1925)1月15日、病気により没した。70歳