山岡  順太郎

第11代学長 総理事

1922(大正11)年5月~1925(大正14)年3月

慶応2年(1866)9月18日石川県に生れる。 金沢医学校に入学したが、「志は医に非ず」として退学し、陸軍士官を志して上京。ゆえあって士官も断念。明治18年、茨城県に就職。 明治25年、同郷の先輩中橋徳五郎をたよって逓信省に入省、同省主計課法規係長にまで進んだが、 中橋の官界辞去と共に31年辞職。中橋と共に同年9月、大阪商船株式会社に入社。以来10数年中橋社長を助け大阪商船の発展の基礎を築く。 また、当時衰退していた大阪鉄工所(日立造船の前身)の社長となり、積極経営が功を奏して、見事再建に成功。一躍、大阪財界に名を馳せた。他に日本電力などの社長となり、 更に、宇治川電気、大阪曹達など10有余の会社役員を兼ねた。大正6年から大正10年まで土居通夫のあとを継いで、大阪商業会議所会頭を務めた。 関西大学とのかかわりはこの頃からで、 本学理事柿崎欽吾(当時大阪商船顧問弁護士)の斡旋により、 大正9年、本学評議員に推挙され、大正11年5月総理事に選任された。翌年学長に選任される。千里山学舎建設、 大学昇格などの大事業を遂行、本学中興の祖といわれる。昭和3年(1928)11月26日没した。62歳