■人権問題研究室室報第23号(1999年6月発行)


フライブルク、ハイデルベルク紀行

小川 悟(文学部教授)

 ルフト・ハンザ・ボーイング747は、大阪関西空港を朝の9時40分に飛び立つ。この時間より早く空港に着いていなければならないのは、たいへん苛酷なことである。しかし、ドイツには同じ日の午後の2時には到着するので、その日のうちにドイツ各地に行くことができる。昨今は、ルフト・ハンザもなかなか美味い食事を提供するので、朝は辛いけれども、便利だわ食事は美味いわということで、利用客がたいへん多い。さながら、客をぎゅうぎゅう詰め込んでいるような状態である。それでも、吉田室長は、窓から茫漠たる空の彼方に眼をやりながらたいへん満足の体だった。この人には、初めてのヨーロッパ旅行の筈なのだが、機内ではまことによく食べ、よく飲んでいた。定刻どおりフランクフルトに到着したが、フライブルクに行くためには、私たちは、スイスのバーゼル行きの飛行機に乗り換えなければならない。トランジットというあれである。バーゼル行きは4時半であるから、いささか長い時間を待たねばならない。
 時間が来て乗せられた飛行機は、フォッカースと言ったか何と言ったか忘れたが、小さな双発の飛行機であった。プロペラが窓のすぐ傍で悲しいくらいに一生懸命に回転しているのである。飛び立つと、ほどなくしてまたもや食事である。軽食とは言え、先刻ルフト・ハンザの機内で食べたばかりで、胃袋は膨れ上がっているのだが、旅の興奮は食欲を喚起するのだろうか、またもやナイフとフォークを使うのである。機は南ドイツの美しい山の上を、無茶苦茶に揺れながら一路バーゼルを目指して飛んだ。私たち乗客は、大いに恐れをなしていたが、私たちに見せている操縦士の背中は、全く落ち着いたものだった。この飛行機は、客席から操縦室が丸見えなのである。仕切りのドアーがなかったのか。たいへんな飛行機ではあったが、降りる時は、何となく未練を残させた。
 バーゼル空港は、半分がフランスで半分がスイスである。空港の真ん中を国境線が走っているみたいなものである。フライブルクに行くのには、フランス領からバスに乗る。1時間ほど走ると、フライブルク駅前に到着した。シュミット所長が待っていてくれていた。室長と通訳を引き受けてくれる佐藤さんと、彼は慌ただしく挨拶を交わすと、研究所に向かって車を走らせた。最初に書かなかったが、今回の旅は室長と私、それに講演の通訳を引き受けてくれた佐藤さんの三人である。研究所に着いてから、正式の挨拶があった。
 こうして、今回の旅程は、フライブルク教育大学の二言語研究所訪問に始まった。ここの所長のギドー・シュミット氏は、招聘研究員として1998年11月に本学にやって来た。秋の人権講演会で彼の講演があったので、人々の記憶に残っていると思う。吉田室長の訪問ということで、学部長の懇ろな招待を受けた。この大学は、シュミット所長の尽力で、人権問題にかんする研究は盛んである。その意味からも、私たちの人権問題研究室は、ここでは大いなる関心が持たれているのである。研究所紀要も、まことに立派なものが刊行されている。この研究室の外国人労働者にかんする研究は、ドイツにおいても有数のものであると言える。私たちの研究室は、更に学問的提携を深めることが肝要であろう。特に人権問題は、今日国際的な規模で研究されている実情から見れば、ここに限らず、諸外国の研究機関との様々な形での提携は必須である。室長の吉田教授は国文学者であるということが、人々の関心を惹いたことは興味深い。研究所では、吉田教授の講演を期待していたが、残念ながら今回は時間の都合上できなかった。次の機会に是非ということであった。
 フライブルクは、ドイツの南、即ちスイスのバーゼルに近いところに位置している。時間がなかったので、殆ど観光をする余裕はなかったが、古い中世のこの大学街は、われわれに深い感銘を与えた。日本にはドイツのような古いいわゆる大学街はない。つまり、大学とともに発展した街は、日本にはない。室長は、この街の歴史を散策しながら身体で実感していた。フライブルク教育大学の表敬訪問を終えて、私たちは、ハイデルベルクに向かった。ここは、ドイツ・シンティ・ロマ中央評議会の所在地である。そして、ドイツ連邦政府の援助でできた立派な資料館がある。この資料館は、ナチス時代の強制収容所におけるシンティやロマに対する迫害の状況と惨状を、主として当時の写真によって示している展示館である。写真が語りかけてくるシンティやロマのここの家族の歴史は、私たちに深い感銘と衝撃を与える。
 室長は、中央評議会議長のロマニ・ローゼ氏に会った。氏自ら、私たちを案内して評議会の内部を見せてくれた。日本の大学の研究機関を代表してここを訪れたのは、おそらく吉田室長が初めてのことだろう。ローゼ氏も、たいへん喜んでくれた。到着した日には、秘書のペーター・ルンク氏が、ハイデルベルクの街を案内してくれた。面白かったのは、大学のカフェに案内されたことだった。関西大学の生協とは全く異なった雰囲気のカフェは、決して静かな雰囲気ではないのだが、不思議にゆっくりくつろげるのである。私たちは、この雰囲気を楽しんだ。フライブルクも同様であるが、ドイツの街は、特に大学街といわれる街では、日本人特有のあのせかせかした歩みはそぐわない。
 室長の講演は、2日目の夕方、資料館のホールで始まった。与えられたテーマは「日本における少数民族」で、ポスターが作られていて大々的に大学を始めハイデルベルクの街の要所要所に張り出されていた。70人が入るホールだったが、講演開始の前からすでに満員状態で、立っている聴衆もいた。司会は、ローゼ氏自らがつとめてくれた。前座に、私がアイヌについて語った。本命の室長の講演は、金達寿の小説「中山道」を中心に、関東大震災の時の在日朝鮮人に対する日本人の凄まじい迫害に触れながら、在日朝鮮人に対する差別迫害に及んだ。室長の落ち着いた語り口は、それが日本語にもかかわらず、会場に独特の雰囲気を醸し出した。もちろん、佐藤さんの上手な通訳で、聴衆は内容をよく理解した。日本人の私にとっても、たいへん感銘を受ける話だった。ドイツでは、講演の後は、必ず質問が出る。一般の講演でも、学生を前にした場合でも同様である。ここでも、活発な質問が出た。その晩は、ロマニ・ローゼ氏に、私たちは夕食に招待されていたが、多くの質問を受けて予定の時間をはるかに超過してしまった。座席の前に日本人が座っていて、それが中文の壺井名誉教授のお孫さんだった。偶然と言えば面白い偶然だった。緊張感のある、それでいて、参会者一同が私たちとたちまち融け込み合った、まことに心地よい講演会であった。
 今後も、私たちの研究室は、多くの研究機関と接触を保ち、シンポジウムや講演会による学問的かつ実践的な交流を図るべきだろう。これこそ、言葉のほんとうの意味での国際交流である。
 ネッカール河畔に、日本料理店ができていた。気取りのない、感じのよい店だった。翌日、私たちは、ローゼ氏を始め数人の事務局員をこの店に招待した。せめてものお礼のつもりだった。彼らは、別れ難い人々だった。ハイデルベルクは去り難い街だった。
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シンティ・ロマ文献目録

小川 悟

 シンティとロマの研究書は、目下のところさほど多くはないが、基本的な文献としてはいささか揃えられている。最近は、シンティやロマにかんする卒業論文を書く学生も見られるようになった。いずれは、学位論文を書く大学院生もでることだろう。日本でこそ文学的表象としてしか把えられていないが、ヨーロッパにおけるこの少数民族集団は、迫害と差別の歴史の担い手である。彼らのヨーロッパにおける出現は十三世紀に溯るが、近代に至るまで、彼らにかんする研究はなかった。彼らの使用言語であるロマーネスはインド・ヨーロッパ語に属しているが、これも近代になって言語的研究と同時に辞書や文法書が編纂されるに至った。人権研の書架にあるペーターラング書店のチガノロギー(ジプシー学)の双書は、この民族集団の民族学的かつ民俗学的研究に稗益することだろう。たとえば、ハインリヒ・フォン・ヴィスロッキの「南東ヨーロッパにおけるチゴイナーの民族誌」やエンゲルヴィルト・ヴィッティッヒの「チゴイナー学論集」、あるいはヨアヒムS・ホーマンの「ローベルト・リッターと犯罪学の継承者たち」は特記すべきだろう。ローベルト・リッターは、悪名高きナチスの御用医学者であった。その他、ドキュメントや実録も揃えてある。ただ、残念なことは、ロンドンで出版されていた伝統的な雑誌「ジャーナル・オブ・ザ・ジプシー・ロア・ソサエティー」が未だないことである。
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御坊市の寺院めぐり

藤原有和(委嘱研究員)

 わたしたちの紀州の寺院をめぐる旅は、湯浅町からはじまり広川町、そして由良町へと南下してきた。3月30日、31日の両日、前回に続いて校友の小出潔氏の案内で御坊市を訪れる。日高川の河口に位置する御坊は、中世から近世初頭にかけて、山間部と湯浅、由良とを結ぶ水上交通の要地であり、遠隔地間の商取引を行う水運業者(「渡り」)の活動の拠点であった。
 御坊市の起源となった日高御坊の前身吉原坊舎が建立されたいきさつは、つぎのとおりである。天文9年(1532)亀山城主湯川直光は、細川・三好の両軍の抗戦にあたって、細川勢に組したがついに功ならず、そのため本願寺第10代宗主証如に加護を願った。証如の命令を受けた大和・河内の門徒の援軍により亀山城に帰ることのできた直光は、この厚恩を深く感じて一宇を建立したのである。天正13年(1585)の秀吉の進攻によって亀山城、吉原坊舎は焼かれるが、その後文禄4年(1595)、国主浅野家重臣佐竹伊賀守の尽力によって日高坊舎を建立している。これが現在の日高別院である(「本願寺日高別院沿革」)。
 安養寺は、江戸時代には御坊地域およびその周辺に千軒を越える被差別身分の門徒を有していた。つぎの文書によれば、紀州藩の国法上、差別待遇を受けていたことが分かる。すなわち、亭保17年(1732)の切支丹御改めに関する取り極め(御坊村へ周辺から引越して渡世する場合、和歌山城下にならって、その出在所の元寺が宗旨印形の支配をすること)に36箇寺連署しているが、その中に同寺が含まれていない(善妙寺所蔵文書)。
 当寺の開基について「日高郡誌」は、「大永3年(1523)道西という者当寺を開く、由良蓮専寺の開基も道西(但大永元年2月13日寂)なり、これと当寺開基道西とは別人なるべきも而も血縁ならん」と記している。当寺には、道西が蓮如上人より直接授かったという「片袖の名号」が寺宝として伝えられている。当寺の記録では、天文9年(1540)寂の開基道西以降、宝永7年(1710)寂の道仁までの住職名は不明で、「禅門僧数代」と記すのみである。ここには、中世末期から近世初頭にかけて、当寺僧侶と由良興国寺が信仰にもとづく関係を結んでいたことが示唆されている。由良蓮専寺の開基藤太夫、同じく由良教専寺の開基若太夫も禅宗興国寺と信仰上の深い関係にあった。当地域では浄土真宗に帰依した人びとによって、禅宗と念仏がその宗教的実践において統一されていたものと考えられる。
 また当寺には、湯川氏の居城である亀山城にあったとされる唐獅子図(戸板に描かれている)が伝えられている。その伝来の意味については検討すべき余地があると思われる。天正13年の日高地方における秀吉の軍隊と一向一揆との攻防の後、湯川一族は熊野へ逃れたという。冒頭にふれた水運業者集団こそは、この戦闘に際してもっとも中心的役割をはたしたと考えられるが、攻防の後どのようになったのであろうか。被差別部落の起源に関して、一部の研究者が主張するように、河原者が「かわた」として太閤検地帳に登録されたというように安易な系譜論ではたして説明できるであろうか。
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シンガポールの「KEMPEITAI」

鳥井克之(文学部教授)

 今年の3月30日から4月3日まで中国語を「華語」と称しているシンガポールにおける中国語教育事情をプライベイトに調査してきた。そのときの副産物として日本がシンガポールを侵略・占領して「昭南島」と呼んでいた時期(1942年2月−1945年8月)の歴史的事実の一斑を垣間見ることができたので、ここに紹介する次第である。
 シンガポールを去る日に観光資源として有名な「マーライオン・パーク」「ボート・キー」「ラッフルズ・ホテル」「国会議事堂」「切手博物館」「国立図書館」「国立歴史博物館」などのある「シティ・ホール&マリーナ・スクエア」を散策した。
 まず観光案内書により、戦争記念公園にある日本占領時期殉難人民記念碑に詣でた。案内書では「日本軍によって5万もの人が虐殺された。これはそのときの犠牲者の慰霊碑である。高さ67メートルの先細の4本の柱は、地元では『チョップスティック(箸)慰霊碑』と呼ばれている」。また他の案内書には「このような惨事を二度とくり返さないようにと、シンガポール、日本両政府の協力で1967年に建てられた慰霊塔である。塔は4本の柱から成っており、それぞれ中国人、マレー人、インド人、ユーラシアンを表す」とあるが、4本の柱の根元中央には次のような碑文が刻み込まれていた。
 すなわち「1942年2月15日より1945年8月18日まで、日軍(日本の軍隊)は新嘉坡(シンガポール)を占領し、我が平民の無辜(ムコ;何の罪科もないこと)にして殺されし者、その数は計(カゾ)うるに勝(タ)うべからず(数え挙げることができない)。20余年を越えて遺骨の収斂(収集)を始め、ここに重ねて葬り、ならびに豊碑(高くて大きい石蹄)を樹(タ)て、悲痛を永(トコシエ)に誌(シル:心に刻み込む)す。」とあった。
 その後、典型的なゴシック建築の尖塔が印象的なイギリス国教会派所属のセント・アンドリュウス教会やシンガポール最古の教会であるアルメニアン教会などをそぞろ歩きしながら見学した。さらに拙著を寄贈するために国立図書館に立ち寄った後、隣接する国立歴史博物館を訪れた。シンガポール史の代表的な史実を20場面のジオラマで描写していた。もちろんその中には日本軍による侵略の2コマがあった。付設のAVシアターで立体映像の「The Singapore Story」が上映されていたので割増料金を払って見た。植民地から独立して国家を形成して今日に至る歴程を5期に分けて解説していたが、ショックだったのは「38歩兵銃」を構えた日本兵が我々観衆に向かって発砲する場面であった。同席していた小学生らしき団体が銃弾から身を避けるようにしてスクリーンを眺める仕草をしていたのが特に印象に残った。課外教育の一環として小中高校生に鑑賞させるために長期上映中とのことで、上映後、館外に出るとスクール・バスが2台駐車していた。
 博物館の向い側にある日本軍が侵略して最初に日章旗を掲げたキャセイ映画館に行こうと信号待ちしながら、ふと後ろを見ると、写真の銅版記念碑が眼に映った。標題は「KEMPEITAI EAST DISTRICT BRANCH」で、左半分は英文説明とマレイ半島侵略図とシンガポール日本官憲所在地図,右半分はマレイ語、中国語、タミール語、日本語の説明文と旧YMCAビルが刻まれており、日本語文には「かつてここにあった旧YMCAビルに憲兵隊東支部が置かれた。憲兵隊による「粛清」行動のなか、抗日活動の嫌疑を受けた大勢の華人が生命を落とした。抗日容疑者たちは取り調べて考(碑文は濁点と手扁が脱落、即ち「で拷」)問を受け、その悲鳴がビル周辺の静寂を破ることもしばしばであった」とあり、KEMPEITAIは恐怖の外来語として定着していたのである。
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書 評

山村嘉己著
『詩人と女性−フランス象徴主義の裏側』
(関西大学出版部、1998年11月刊)

平田重和(文学部教授)

 本書は著者自身がその「あとがき」で述べているように、第一章の「ボードレール」(補説も含めて)を除けば、第二章から第五章まで、すべてここ数年にわたって関西大学人権問題研究室の研究紀要に発表されたものである。私はその研究紀要に掲載された各論文をその都度拝読していた。しかし間をおいて目を通していたときには、「詩人と女性」というテーマが、いま一つ私の内に明瞭なイメージとして像を結ばなかったが、この度それが一冊の著書としてまとめられ、通読することができて、著者の意図するところが、よく理解できたと思っている。それは言うまでもなく、象徴派と称せられる詩人たちと女性との関係を掘り起こし、フェミニズムの観点から論考するということである。
 これも著者自身がその「はじめに」において述べているように、古来「オルフェウスまで遡るまでもなく、詩人のたて琴はいつも女性への讃歌を奏でていた」ことは周知のところである。イタリアの詩人ペトラルカにおける永遠の恋人ラウラ、16世紀フランス、プレイヤッド派の詩人、ロンサールにおけるフィレンツェの銀行家の娘、カサンドル・サルヴィアチのごとく、詩人たちには、詩的インスピレーションを与えてくれるミューズ(芸術の女神)が必要だったのである。
 時代が下って、19世紀ともなると詩人と女性の蜜月関係は崩れ、象徴派の詩人らの女性体験には不幸の翳りが見られる。本書では、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメの四人の詩人が論じられているが、中でもボードレールとヴェルレーヌの場合は痛々しく胸に迫るものがある。
 ボードレールと女性を見る場合、母親を含め、彼と関係のあった三人の女性が問題になる。母親の再婚という「痛烈な裏切り行為」が彼の上に及ぼした深い影響については、文学史的常識になっている事柄であるが、あとの三人については、三人がそれぞれに彼の人生、ひいては彼の芸術に大きな影をおとしていることが跡づけられている。なかでもほとんど二十年にわたって愛憎ないまぜた混血女性ジャンヌ・デュバルの存在は大きかったようだ。しかし、「ボードレールは真に女性を愛し、また愛されたのか」と著者は問う。なぜなら「愛」においても自己を完全にそこへ埋没させてしまうことのできない現代人の姿をそこに見るからである。
 ランボーと妻マチルドに代表される女性との間で、揺れる「両性具有者」ヴェルレーヌの軌跡は一層痛々しくもあり、また同時に詩作上の奇蹟的なものを感じずにはおれない。  最終章、第五章のヴェルレーヌとランボーの関係は、いうまでもなく「詩人と女性」の関係ではなく、男色関係にあった二人についての論考で特異な章となっている。
 発砲事件にまで至った二人の関係は、まさしく≪地獄の季節≫と呼ばれるのに相応しく、「この二人の天才の交錯の軌跡には何か神の底知れぬ悪意(?)を感じずにはおれまい」と山村氏はいう。これに少し付け加えて、「そこに何か神の神意(?)を感じずにはおれない」という言い方も可能なのではないだろうか。
 最後に、少し注文めいたことをいうと、恐らく資料がはとんどなかったのだろうと推察しているのだが、自己本意的なところが多分にある詩人たちに対する女性からの告発といったようなものはなかったのだろうか。女性からの声を聞くことができたら、フェミニズムの書として更に厚みがでたのではないだろうか。それと、我が国における高村光太郎や志賀直哉のケースのように、恐らく本人たちは意識していなかったようだが、社会構造上からくる女性差別のような「匂い」はフランス人の詩人たちにはなかったのだろうか。機会があれば、またその辺のところを聞かせていただきたいと思う次第である。
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