■人権問題研究室室報第22号(1999年1月発行)

15年戦争と復旦大学
−トーチカと将校官舎−

鳥井克之(文学部教授)

 1998年度交換教授として復旦大学に8月1日から2ヶ月間滞在した。調査テーマは「15年戦争と復旦大学」である。特に満洲事変を掩蔽するために1932年1月28日に勃発した「第1次上海事変」と蘆溝橋事件の飛び火である1937年8月13日に惹起された「第2次上海事変」及び1937年7月7日に北京西南郊外の蘆溝橋で発生した武力抗争から拡大された「日中戦争」時期の復旦大学について調査した。
 復旦大学は1905年に創立され、今年で創立93周年を迎えた。その歴史は『復旦大学校史第1巻』及び復旦大学文博学院校史図片展示室の記述を総合すると、1.復旦公学(1905年−1917年)、2.私立復旦大学(1917年−1937年)、3.抗日戦争(1937年−1945年)、4.解放戦争(1945年−1949年)、5.改造・発展(1949年−1965年:この時期は新中国建国を喜び祝った「歓慶解放(1949年−1951年)」、全国の大学・学部を再編成して基礎を築いた「院系調整奠基礎(1952年−1956年)」、全面的に発達した新しい人材を養成した「全面発展育新人(1957年−1965年)」に細分されている)、6.文革動乱(1965年−1976年)、7.改革・振興(1976年−1995年)の7期に区分される。
 従って上述の第2期後期と第3期全体について調査した。文献収集では日本では絶対に入手不可能な『上海市中学課本 上海郷土歴史』(上海教育出版社:1979年3月初版、1997年6月第5版第20次印刷:累計267,4340冊印刷)を入手し、表記テーマの時代背景と周辺事情を理解するため、また当代上海の若者に形成された日本像を知るため、日本が登場する部分(5・30事件、1・28淞滬抗戦、8・13上海抗戦、蹄鉄下の生活と闘争)を抜粋して翻訳した(『関西大学人権問題研究室紀要第38号』掲載)。また一年半前に開館された新しい上海図書館に通い資料閲覧を行った。さらに関連書籍以外に「音像書店」でCD−ROM(中国現代百年史、20世紀中国図志、南京大虐殺事件、中国抗日戦争史、上海百年、丹心碧血為人民、上海市市級愛国主義教育基地など)とVCD(愛国主義教育映画シリーズ)を購入した。
 実地見学は一人でバスやタクシーを利用し、時にはパトカーに便乗して5・30事件(上海の銀座通りである南京東路第一百貨店東隣にある「“五卅”運動愛国群衆流血犠牲地点」の掲示板)、第1、2次上海事変の旧跡(閘北、「四行倉庫」、十六舗、一二八紀念路、「肉弾三勇士」の廟行鎮周辺の各鎮、TV劇「大地の子」のモデルに使用された「宝山製鉄所」東一帯の日本軍敵前上陸地点など)及び上海市竜華烈士陵園、宋慶齢陵園、上海市歴史博物館、淞滬抗戦記念館籌備室を訪ねた。
 実地調査で一番驚いたことは現在の復旦大学キャンパス内にトーチカと日本軍の将校・下士官官舎の存在を確認したことである。トーチカは正門正面の「物理楼(物理学部ビル)」東にある大運動場西南角にあり、官舎は正門前の邯鄲路から南へ約百米から二百米離れた一帯に散在する第1・2・4(以上は将校)、5・6・7(以上は下士官)教職員宿舎の一部に現在も利用されていた。
 かつてあるニュース写真集で「復旦大学に進攻する我が軍」との説明の付いた写真を見たことがあったので、復旦大学が戦場になったことを知っており、また十数年前に本学と復旦大学との協定校交渉に行った時、日本軍の「兵営」があると仄聞していたが、まさかトーチカが保存され、将校官舎が宿舎として活用されているとは思いもかけないことであった。昨年訪問した延辺大学に日本憲兵隊の建造物があったことと思い合わせると、日本では「日中戦争」は過去の歴史として認識されているが、中国では今も風化せずに生々しい現実として存在していることを痛感した。
 『復旦大学校史』と同編集室主任の説明によれば、第2次上海事変後、国民党政府教育部(文部省)は北京、清華、南開3大学を(西南)聯合大学に統合して疎開させたと同様に、復旦、大同、大夏、光華の4大学を統合して疎開させようとしたが、復旦大学は一部は上海市内に留まり、他の一部は四川省重慶市郊外北北西約75kmにある北碚に疎開した。
 第2次上海事変では復旦大学がある江湾地区全体が戦場となり、日本軍の砲火により体育館は跡形もなくなり、簡公堂(講堂)、実験中学、第1・4・5・7宿舎は外郭を残すのみとなり、図書館は1階部分だけが辛うじて残り、東宮(女子寮)は屋根が吹き飛ばされた。このため当時の英国租界北京東路にあった中一信託ビルの4,5階を借り、1938年2月23目に37年度後期授業を再開した。その後比較的閑静なフランス租界霞飛路(現淮海路)に移転したが、フランス租界当局が日本帝国主義を畏れ、校舎として使用することを認めなかったので、仁記路(現テン池路)中孚ビル3階に移転し、1939年4月には赫徳路(現常徳路)に4度目の移転を余儀なくされた。1941年、太平洋戦争が勃発するや、日本軍は英米仏租界に進駐し、上海復旦大学補習部に干渉しようとしたが、当時の学長李登輝(現在の台湾指導者と同姓同名)は『三不主義(「敵偽(日本とその手先機関)」に登録せず、特別手当を受けず、干渉を受け入れない)』を実行して、日本語教育を行わず、またセント・ジョーンズ、光華、大夏、復旦4校を聯合大学に併合されることを拒絶した。
 他方、内陸部に疎開した復旦大学はまず江西省の避暑地廬山の普仁病院を校舎としたが、日本軍が上海攻略後、南京に進攻したので、蒋介石の懐刀CC団の首領陳立夫から1万元を借用し、1937年12月1日に九江から本来は国民党中央政治学院が使用する予定だった船に乗り、宜昌で乗換船を半月待ち、年末に重慶に到着した。まず重慶市内菜園ハにあった重慶復旦中学を仮校舎として授業を再開したが、その後校友の援助により北碚に移転して本格的な学舎建設を始める。
 しかし1939年5月3,4両日の日本軍機による重慶猛爆に遭い、市内にあった商学院とマスコミ・経済両学科もやむなく北碚に移った。極めて困難な状況下にあったが四学院十六学科による教学が実施された。だが1940年5月27日に復旦大学教員宿舎なども空襲に遭い、中山大学から招聘された新進気鋭の孫寒冰教授が6名の学生と共に殉難した。その「復旦大学師生罹難碑記」の冒頭に「倭(日本)の我が文化に沐浴(恩恵を受ける)するや、ほとんど二千年なり。思わざりき!今日倭寇の至る所、我が文物を焚毀(焼き壊し)、我が学校を破壊し、我が師儒(教授)を辱戮(無惨に殺し)、我が子弟を屠殺せり。その凶(賊)の悪行を謀るをみるに、顕かに我が文化を壊滅乃至我が文化を創造せし精神を摧絶(絶滅)せんと欲す。こい願わくばその侵略の大欲を償ぐなわんことを‥‥‥」とある。
 1941年11月25日に国民政府行政院は復旦大学を私立から国立に移管し、著名学者を多数招聘し、五学院二二学科と中央研究院の下部組織を擁する総合大学となり、当代中国の最重点大学である北京大学と並ぶ復旦大学の基盤が確立され、抗日戦争終了後、復旦大学は上海に復帰した。
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部落問題研究班合宿報告

住田一郎(委嘱研究員)

 昨年に引き続き飛鳥の植田記念館で一泊研修会を開きました。昨年は班員からのレポートに基づいて今日の部落差別問題の現状について研修を深めました。今年も基本的には部落差別をめぐる現況について、主に今春刊行された『脱常識の部落問題』を通して学習を深めることとしました。それで、合宿には初めての試みでしたが、外部から講師を迎え、たっぷり報告を受けた。講師はこの本の出版元編集担当者寺園敦史(『だれも書かなかった「部落」』著者)さんをお呼びした。
 編集企画段階では50名もの執筆者候補をたてていたが、呉越同舟ともいえる企画に、スムーズにとけ込めなかった方や20枚厳守の枚数では十分に書けないと断ってきた方もおられたそうです。最終的に、初めての企画にもかかわらず28名もの執筆者を確保できたことは成功。解放同盟・全解連それぞれにシンパシィーを感じている研究者と双方に等距離を持った研究者、自治体職員それに部落問題に関心を持つジャーナリストとそれはそれは多彩です。このような著作が出版されるところに、今日の「混迷した」部落差別問題をめぐる状況の一端が示されているとも言えるでしょう。昨年3月に同和対策事業関係の法律が失効した後の、具体的な方向・イメージを各運動体ともいまだに明確には提起し得ていない。ただ、各自治体による啓発活動が、現場では従来の手法の行き詰まりを十分に総括できないまま、さらに強化することのみが追求されている。このままでは啓発活動自体が形骸化することは目に見えているのに。それ故、各自治体担当者は新しい手法を必死で模索中なのです(参加型、KJ法等が積極的に取り入れられている)。
 彼ら担当者が模索中の課題を研究者側から理論的に応えるべく企画されたのがこの著作だとも言えます。もちろん、一人20枚厳守では十分課題を提起できないことは明らかですが、それぞれのエッセンスを読みとってもらえれば、なにほどかの示唆がちりばめられている、とのことでした。
 その後執筆者も参加しておられたので補足をしてもらい、議論を探めた。当然、編集意図そのものへの疑問、内容の追求、構成不足等への疑問もだされ、しかし、このような形で著作が発刊された努力はひとまず是とされ、ほんとうの課題はこれからだろうと言うことになった。講師を含め総勢9名の参加者だったので、夕食時以後の時間無制限の歓談が毎度のこととは言え研修内容をさらに深めたことはいうまでもない。
 ここ当分は部落問題研究班でも、一見把握しがたい今日に於ける部落差別問題の現状を明らかにする試みも歴史研究ともども重要な課題となっていると確認できた。
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調査報告(1)人種・民族問題研究班
2度目の沖縄調査行

吉田永宏(文学部教授)

 9月9〜11日、人種・民族問題研究班のうち、小川悟・梁永厚・吉田永宏(田中欣和が特別に参加)の4名が調査研究のために沖縄を訪ねた。2月の訪沖に続いて、2回目のものである。7月30・31日の河内長野荘に於ける人権問題委員会・人権問題研究室の研究合宿が、川満信一氏、作井満氏(海風社社長)の講演に基づく沖縄問題を中心テーマとするものであり、この合宿研究会の成果や2月の訪沖の経験を更に発展させることを意図しての今次の沖縄訪問であった。
 私たちにとって今回の最大の収穫は山内徳信・沖縄県出納長と面談できたことであった。読谷の地で村長として地方自治を守り続けてきた人が、大田昌秀知事の補佐役として、名護市海上ヘリコプター基地の是非を問う住民投票実施の県の態勢を強化するために望まれて県出納長の任に就かれたことの意味を私なども知ってはいた。朝鮮戦争に伴ってアメリカが銃剣とブルドーザーで基地の拡大を図ったとき、琉球大の学生であった山内氏は川満先輩たちと共に島ぐるみの反対闘争の中にいた。基地と共生せよとの最近の政府の方針を「言葉による弾圧だ」と山内氏は言い、名護市の住民投票を指して「衆愚政治」と罵った政治家の言について、「沖縄県民にだから言うのです」と山内氏は言う。「沖縄問題の解決のために何故こちらから東京へばかり行かねばならぬのか。国と自治体は対等で同じ人格体。日本の民主主義・未来のために、47番目の子どもに過重負担を強いる親とは何であるか。沖縄の戦中戦後の歴史を知った上で、『人の道』と言え。戦前世代の蒔いた種は、戦前世代が刈り取れ」との山内徳信氏の言には、沖縄の歴史の怒りが込められていた。この人の口から、県民の意志・住民の意志に基づく地方分権の思想が語られるとき、その言葉には沖縄の歴史と現実のみの持つ重さがあった。「政府に向かっても、沖縄の基地を本土に移せとは口が裂けても言えなかった」との山内氏の言を、本土の人間であるわれわれはどう聞くべきなのだろう。
 (財)雇用開発推進機構の内海恵美子・調査研究部部長は、沖縄の地上戦で生命を失ったゼロ歳児でも戦闘協力者の故に多額の戦後保障の対象となり、それが求職の際の公務員志向という或る種の矛盾の因ともなっている現実を私たちに指摘して下さった。ゼロ歳児といえども尊い人命に変わりはなく、それへの戦後保障は当然の権利ではある。しかしそのことが矛盾を生み出しているとするならば、その問題を避けてはなるまい。
 慌しいスケジュールの中で、私たちは可能な限りの軍事基地を見て回った。宜野湾市普天間基地の中に作られた佐喜眞美術館には、丸木位里・俊夫妻の大作「沖絶戦の図」があり、そこには俊さんの手で「集団自決とは/手を下さない虐殺である」と書かれてあった。読谷村の多くの人の終焉の地となったチビチリガマの入口に、観光客に向けて、先祖の白骨を踏まれることは私たちには耐えられませんと記されていて、私ども一行はそこからガマの奥に向かって静かに合掌した。
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調査報告(2)障害者問題研究班
秋田県の精神障害者の社会復帰に関する実態調査
(1998.7.14〜7.17)

藤井 稔(文学部教授)

 今回、われわれは先ず、秋田県立精神保健福祉センターを訪れた。このセンターはほとんどの府県で、その中心地に設置されているが、ここでは最近、新設されたこともあって、秋田市に隣接する郡部にあった。したがってそこへ行くのに秋田駅前の宿舎からはタクシーで30分以上かかった。途中、市街地を離れ、人家の少ない山林を過ぎると、他府県では見られないような大きな立派な建物が目に入った。
 建物の中には植栽もあり、落ち着いた感じがするが、センターが市街地の中心からかなり離れているのは、一寸気にかかった。そこには県立リハビリテーション・精神医療センターも共設されており、宿泊生活もできる設備も整っていたが、まだ出来たばかりで十分に利用されるのはこれからのようであった。自動車の便もあることだから、これからの有効な利用が期待される。バリア・フリーに関心を持っておられて、今回は初めてこの調査に参加された工学部建築学科の馬場昌子先生はこの建物の内外について鋭い目で観察され、ときどきなにやらつぶやきながら、カメラに収めておられた。
 ここから汽車に乗って、大曲に着いた。保健所はタクシーですぐのところにあった。小さな町であり、共同作業所はそこから近くの所にあったが、ちょうど休みであったので、そこの所長さんは保健婦さんを交えてわれわれに熱っぽく語ってくれた。町の中に一軒家を借りてそこで作業をしているが、家主さんが理解のある人でいろいろと必要な手入れをしてくれているとのことであった。町中でこのような作業所を開設することは周囲との関係からもなかなか難しいのに、精神障害者の社会復帰も次第に全国的に根付き始めているのを感じた。
 翌日はのぞみ共同作業所を訪問した。ここは市の中心地、市役所に隣接したところにある。家族会の市長への熱心な要望が認められて市の老人福祉に関係する建物の建設の際にその一部にこの計画が組み込まれた。スペースもかなり広く、15,6人の人たちが作業をしているところであった。所長、保健婦、ボランティア、とそこの関係者と話し合ったが、このような恵まれたところに作業所が出来たのは、家族会の組織がしっかりしていることにも依るのであろう。作業の風景を撮影することも自由に認められた。精神保健福祉センターが市街地から遠くにあることと市の共同作業所が市の中心に、しかも公共的建物の中にあることで少しアンバランスな感じはするが社会復帰事業も少しずつ前進していることが分かった。調査の詳細は紀要に発表する予定である。
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書 評

源 淳子著
『フェミニズムが問う王権と仏教』
(三一書房、1998年7月刊)

山村嘉己(文学部教授)

 戦争責任・戦後責任について結局、有耶無耶のうちに頬かむりをしようとする日本の知識人の「思想のモラル」の欠如に対して、源さんは非常に怒っている。それは、「おわりに」のなかで、「歴史を認識する営みは、歴史の事実に臆することなく、その事実のなかに自分を投げ入れることではないだろうか」と問うているところに明らかにうかがわれる。そうした営みには「主観」が伴う危険性が十分あることも承知で、かの女は「過去の事実を隠蔽して」やまぬ日本人の歴史認識を鋭く攻撃するのである。その日本人の「思想のモラル」の欠如を誘発するのが「王権」、とくに近代日本においては「天皇制」であることをみごとに摘発している。真の近代人として自立するには、自らの内なる天皇との対決がなくては叶うまいとつねに考えてきた筆者にとっては、きわめて痛快な書物であった。
 この書物はかの女が思い描いてきた日本のフェミニズムの課題である『仏教と性−エロスの畏怖と差別』、『フェミニズムが問う仏教−教権に収奪された自然と母性』でテーマとした「仏教と性」、「仏教と自然」、に加えて「仏教と王権」の三部作を作るべく書かれたものである。
 第一部ではずばり「仏教と王権」がテーマに挙げられ、第一章で幕府を中心にした権力とかかわる仏教の権力構造が明らかにされる。真宗寺院に生まれたかの女の眼は当然のごとく真宗のあり方−とくに蓮如の行動−に向けられているが、仏教が権力の補完装置に成り終わる経緯が明確に分析されている。続いて、第二章、「近代国家と宗教」で天皇制と仏教との関係が取り上げられ、とくに家族制度と祖先崇拝が巧みに天皇制支持に収斂されて行く姿を浮き彫りにしてみせる。――この分析は第二部、第二章の『国体の本義』の解釈につよく、深く向けられ、偽りの「和」の思想がいかに深く日本の知識人たち−とくに女性−を侵しているかが示されている。――
 第二部、近代日本のナショナリズムとジェンダー・イデオロギーは、第一章、「宗教による近代植民地主義」でとくに朝鮮開教の問題がとりあげられ、「布教という名の侵略」の内幕が明かされるとともに、「王権」に無条件に適合した仏教の強引な植民地主義への反省の不足が、いかに現在の韓国・朝鮮問題−とくに「売春婦」問題−の曖昧な収拾を導いているかを鋭く指摘している。第二章については上にふれたことも含めて、「国体」の問題が明確に分析され、天皇家を宗家とする家族国家という思想が、開かれた女性たちをすら巻き込んで天皇制国家を作り上げて行くいきさつが紹介され、それを二重化するものとして、朝鮮布教の意味がさらに明らかにされているのである。
 以上、明快なかの女の論旨をむしろ曖昧にする愚を犯したのではないかと危惧しながら、改めてこの三部作を年に一度の割合でこの三年間に仕上げられた源さんの能力・努力に改めて讃嘆の辞を捧げて書評としたい。
 ただ一言、蛇足をつけ加えれば、最近とみに現われてきたジェンダー・イデオロギーという言葉の使い方には源さんのも含めて些か首をかしげざるを得ない点があることを告白しておこう。
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新研究員紹介

桑原尚史(総合情報学部助教授)

 総合情報学部より研究員として選出されていた宮下文彬教授の学部長就任に伴い、急遽その後任として人権問題研究室の研究員に加えて頂いた。実は、浅学を省みずに正直に告白してしまえば、是迄、『人権』という言葉には幾許かの抵抗感を抱いていた。それは、おそらく、定かには指摘できないが、所謂『人権派』と呼ばれる人達の狭隘なる視点と『人権』という言葉を正義の証のごとく振り翳す振る舞いに対する嫌悪感から、また『人権』という言葉を使うことによってそれが本来社会あるいは文化により規定されるものにも拘わらずそこに普遍的な意味合いが含まれてしまうことへの疑問から、そして権利という言葉に付き纏ういささかのいかがわしさから生じてきたものと思われる。それ故に、私は、現在に至る迄、『人権』という名の下に語られる問題には関心をもつことができなかった。しかし、『人権』という言葉を『個の尊厳』という言葉に置き換えれば、携わっている領域との関係から障害者の問題やいじめの問題は言うに及ばず、戦後50年余りに渡って今もなお日本の平和を支え続けることを強制されている沖縄の問題、阪神大震災の被災者の問題、はたまた迷或施設及び騒音の問題、さらにはモラルおよびルールの問題へと忽ち私の関心は広がる。最近においてはリストラの問題、それは企業の立場からの呼称であり、雇用されている者からみればそれは単に一方的解雇にほかならず、そこには個の専厳など一顧だにされていないように私には思える。さまざまな専門領域の方より構成される人権問題研究室への参加は、これらの問題を考えるうえにおいて私に必ずや新たな視点を提供してくれることとなろう。
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