■人権問題研究室室報第18号(1997年1月発行)

韓国の「障害者文学」の現況

梁 永 厚(委嘱研究員)

 韓国では、毎年4月に「障碍人(障害者)福祉法」の「第5章 障碍人団体の支援等」の規定により、国民の障害者に対する理解を深め、障害者の自立意欲を高めるために、「障害者の日」と「障害者週間」を設けている。去年4月の韓国の各マスメディアは、政府の障害者雇用拡大5ヵ年計画(投資額3千億ウォン)および障害者大学設立の構想、各地方自治体の障害者福祉施策、各地の障害者体育大会の盛況等について報じていた。そうしたなかにあって、「障害者文学」についての記事(『中央日報』'96.4.15号)が眼にとまった。文学における障害者問題を考える資になるのではないか、という思いから、その概要を記してみたい。
 現在、韓国で創作活動をしている障害者は500人にのぼる。彼らは1990年12月に、韓国障碍人文人協会を結成し、創作活動と文学の研究を進めている。1991年の春からは季刊誌『ソッテ(依代・よりしろ)文学』を刊行し作品の発表も行っている。創刊5周年特集号'95年春号は、文学評論家3名による「障害者文学の反省とその意味」と題した巻頭対談を載せ、文壇で最初の「障害者文学」についての定義をくだし、古典から現代までの障害者文学を概括している。
 まず、障害者文学とは「障害者が創作した文学、障害者の生きざまを描いた文学、障害者に対する社会的問題意識を扱った文学」と三つの範疇を包括する文学と定義された。また韓国の代表的な障害者文学作品として、古典小説の『沈清伝』、植民地期の作品、羅稲香の『唖の三龍』、1970年代に書かれた趙世煕の連作短編集『小人の打ち上げた小さなボール』等が選ばれた。趙世煕の作品は、輸出工業化政策の束縛のなかでナ犠牲を強いられている都市の貧民を表象する小人(こびと)、その息子で産業労働者のヨンス、労働運動の専従活動をする妹のヨンフィを通して、1970年代の韓国社会の底辺の人たちの生を問うた問題作である。とりわけ主人公である身体障害者の純真無垢さと対比して、社会や「権威ある人間の醜悪さ」を、独特な文体で描いた実験的な作品で、1980年代のベストセラーであり続けた。
 さらに『ソッテ文学』5周年特集号は、障害者作家350名を対象とした「障碍人文人の意識調査」の結果を載せている。同調査では、「障害者文学が同情と自らの慰めに落ちいっているのではないか」という指摘があることに対し、障害を持つ作家の作品に対する批評の51%は、障害者の自立、健常者との共生をめざす葛藤の表現を的確に評し得ていないなおざりなものである、と批評者の心理に潜む差別意識について反論している。
 そして、
 道行く人が/私を見て笑うから/私も苦笑いを返した/ふと、小学校の幼い頃/昆虫採取をした/理科の時間が思い浮ぶ/鋭い虫ピンで/死んだくつわ虫の胸を/刺しつづけながら/喜喜としていた子どもたちの/笑い声が/いまを生きている/私の胸を刺しつづけます
と脳性摩痺の詩人(28歳)の「人間採取」という題の一節を引き以下のように結んでいる。「かえって健常者の胸を虫ピンで刺される思いがする。」「障害も一つの個性である」「障害ということばが、障害にならない社会」になるとき、「障害者文学」も穏当な評価を受け、ありのままに開花すると思われる。
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調査報告(1)部落問題研究班

吉田 徳夫(法学部助教授)

 部落問題研究班は、歴史班を中心に広島・和歌山・徳島の各県に部落史の史料調査の発掘と、現地での交流会を持つために出張した。
 部落問題研究班は広島県の解放史の研究会のグループと交流を重ねてきた。そこで貴重な解放史料を地元の人々と共に発掘してきた。その成果は既に『誇りある部落史』の編纂や、近世における部落寺院の解放運動の史料を拝見させていただき、関西大学の『人権問題研究室紀要』等に掲載してきた。今回は、新たに明治維新期の戸籍関係史料が発掘されたために、それを拝見させていただいた。それは明治維新期の「氏子籍」と称すものであり、広島県の氏子籍の作成に関する行政関係の手続きを示す史料である。これを改めて我々関西大学に研究の委託が行われた。
 和歌山の湯浅町と隣接する広川町・由良町へ地元の人々の案内と協力を得て、部落寺院の史料の調査を中心に行った。既に湯浅町では、真宗寺院の史料の悉皆的に調査を行い、部落起源に関する多大な成果を上げつつある。中でも湯浅町の有力真宗寺院の古文書は部落起源を示す貴重な史料であり、今後多くの議論が展開すると期待される。また広川町の部落には河原者助五郎に対する本願寺の感状が伝えられ、また「私共の先祖は鹿ヶ瀬で豊臣秀吉に捕まった」という伝承がある。今後とも研究を継続したいと思っている。今回は由良町の部落寺院を中心に、同地域の真宗寺院の史料を調査を目的に訪れ、その手掛かりをえた。部落寺院に中世文書が伝えられ、他の同地域の真宗寺院との関連を示唆する史料を見いだし、部落寺院の形成を明らかにする可能性が出てきた。由良町は湯浅町にも隣接し、有田・日高郡における部落の起源に関して更に研究を進めることが出来ると期待している。
 徳島県へは、部落問題研究班の吉田が桃山学院の寺木氏や東本願寺の僧侶と共に出かけた。徳島市とその周辺の部落で現地交流会を持ち、併せて史料の調査をさせていただいた。同地域の部落の部落寺院は、昭和二十四年まで「お庵さん」と呼ばれ、寺号すら承認されなかったと言う。改めて厳しい部落差別とその解放の動きを知ることが出来た。また既に『史料で語る四国の部落史』で初めて指摘されたことだが、徳島市の部落には、起源伝承として「雑賀からやってきた」という伝承があると言う。現地で話を伺っていると、「雑賀衆の旗」が残っているはずと云う。寺院にもその伝承があるという。同寺院には過去帳に綴じられた近世文書が残っており、由緒を示す文書と思われる。今後の史料の開示が待たれる。今日に至るまで、雑賀伝承は誇らしく伝えられてきたのではなく、語ることを秘してこられた伝承だと言う。雑賀は現在の和歌山市域の古い地名であり、中世末期に真宗の一揆の拠点となった地域である。雑賀と徳島とが一向一揆を媒介にして密接な関係が存在したことを示す伝承といえよう。
 以上、部落問題研究班は近代初頭の部落問題と部落起源に関する研究を西日本を中心に行う予定である。
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調査報告(2)人種・民族問題研究班

市原 靖久(法学部教授)

 今年度の「アイヌ民族問題に関する調査」は、9月6日から9日にかけて、札幌と旭川で行われた。まず、札幌で、われわれは、北海道開拓記念館学芸員の海保嶺夫氏から、近世アイヌ史に関するレクチャーを受けた。海保氏は『エゾの歴史一北の人びとと「日本」−』(講談社選書メチエ、1996)などの著書がある近世アイヌ史の専門家である。氏のお話しから、われわれは、幕藩制国家・明治国家の差別的支配を受けるようになる以前のアイヌについて学び、18世紀末以降に形成されたアイヌに対するイメージを単純に遡及させてはならないことを知った。
 旭川では、旭川アイヌ協議会の会員有志の方々に集まっていただき、研究会を開いた。今回の調査の主目的は、この研究会の開催にあった。というのは、これまでの調査において、われわれは、「アイヌ新法」制定要求運動を積極的に推進している北海道ウタリ協会と主に接触をもってきたのであるが、今回は、新法制定にはっきりと反対の立場を表明している旭川アイヌ協議会の方たちから直接に意見を聞きたいと思ったからである。
 この研究会では、かつて人権問題合宿研究会の講師を務めていただいたこともある河野本道氏から、氏の近著『アイヌ史/槻説』(北毎道出版企画センター、1996)の内容に即した発題があったのち、旭川アイヌ協議会の会員有志その他10人の方々に、新法制定に反対する理由を述べていただいた(今年度夏の人権問題合宿研究会の講師になっていただいた砂澤チニタ氏も参加された)。その理由はさまざまであったが、あえて要約すると次のようになろうか。アイヌはすでに同化しているから、「北海道旧土人保護法」は廃止されなければならないが、ことさらに新法をつくる必要はない(同化肯定論)。アイヌとして生きるか生きないかは個人の判断に委ねられるべきであり、国家によって誰がアイヌか決められ、一方的に「保護」されるいわれはない(個人的選択を重視し、「国策アイヌ」となることを拒否)。ウタリ協会が進める民族文化復権運動や新法制定運動などはまやかしである(ウタリ協会批判)、等々であった。
 アイヌ民族の復権運動は差別と抑圧に対するアイヌ民族の人権闘争であり、アイヌ文化復興運動は、アイヌに対する負の刻印を投げ返すためのものであろう。アイヌは民族としての実態をもたないといわれるが、差別との闘いのなかからいまアイヌは、民族と文化を奪い返そうとしているのではないだろうか。確かに、北海道ウタリ協会は、全アイヌを代表する組織でもなく、またその組織のあり方に問題を残してはいる。しかし、この協会が、これまで多くの差別事件に取り組み、「北海道旧土人保護法」に代わるべき新法案を決議し、新法制定要求運動を精力的に進めてきたことも事実である。こうした運動のなかで、新法の制定は政府レベルでの検討対象となってきているが、もし、先住民族の基本的権利を保障する内容をもつ「アイヌ民族に関する法律」が制定されたならば、それは、政府に国内先住民族問題に取り組むことを公式に宣言させるものとなり、画期的なことであるといえるのではないか。そして、累積的差別による生活実態の格差がなおアイヌに存在するとすれば、時限立法による特別措置はやはり必要であるように思われる。
 最後になったが、今回の調査の準備・実施については、河野本道・砂澤チニタ両氏に大変お世話になった。記して感謝したい。
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調査報告(3)障害者問題研究班

葉賀 弘(文学部教授)

「上越つくしの里」を支える常心荘川室病院
 「精神障害の社会復帰」をテーマとした実態調査研究は、今年で満10年を迎える。本年度の調査対象県は新潟県で、実際に足を踏み入れた地域は、上越市、佐渡と新潟市の3ヵ所である。本稿では豪雪地域の上越市内にある常心荘川室病院をとりあげ、当院が上越地方で果たしてきた地域医療とその変遷、今後の課題と取り組みについて述べる。常心荘川室病院は今年で開院117年というから歴史的には古く、現理事長の川室優氏は四代目である。われわれ一行が当院を訪れたとき、川室院長は外来診察の真最中で、終了までの時間、院長兼応接室で待たせてもらった。その間部屋中を見渡したところ、壁には初代・二代目理事長の肖像画が掛けられ、その横に“仁寿”の書が飾られてあった。あとで聴いた話によると、この書は東京都立松沢病院(精神科)初代院長で日本の近代精神医学の父呉秀三氏から頂かれたものである。以来、当院では“仁寿”(人間の命の尊さ)を基本理念として、“心身の病”を患う人々に医療を提供することを心がけているとのことである。117年間の主たる診療科目は、眼科、内科、精神科と変遷をとげるが、その時代の住民の医療的ニーズに即応したものであった。
 精神科を主たる科目と標傍されるようになったのは、昭和37年からで34年間の地域精神医療に携わってこられた。開設当時の精神病院と言えば精神衛生法のもとで「精神障害者等の医療及び保護を行う」を目的とする施設収容主義の医療を行う病院が多いなかで、当院においては2年目にして、今日われわれが言うところのノーマライゼーションの考え方をもって、精神医療が実施されていたことは全くの驚きであった。
 昭和38年には、急性期を過ぎて精神的に安定してきた患者には病院近隣の農家へ農作業の手伝いに行かせ、仕事を通して社会との繋がりをもたせたり、昭和40年には院外作業場として高田コンクリート工場やS.B ガーリック高田工場を設立し、専属の担当者を置いてそれぞれ10名、20名の患者が就労する場を提供するなど、現行の障害者保健福祉法で言う精神障害者授産施設を設置されていたのである。患者のなかには相当程度の作業能力を持っていても、雇用の困難な人たちに必要な訓練と指導を行い、自活の促進を目的とした治療と指導が行われていたのである。病院が授産施設としての工場を設置するだけではなく、広く地域社会に働きかけて、院外作業協力事業所いわゆる職親を開拓し、昭和48年には農機具部品製造工場、鉄工所、商店、仕出屋あるいは一般家庭へのお手伝いなどその数25件、作業に出掛けた患者数は約70名程度であったと古い記録に残っている。
 当時の一般社会においては、精神障害者の治療は専ら閉鎖的な病院に収容されることがごく当り前のことと考えられていたが、当院では逆に患者を地域社会に送り出し、地域社会はこれを受容していたという事実は、当時の医療事情を知る者にとって信じ難いことである。
 平成6年のわが国の精神科入院患者は約34万人で、そのうち社会的入院といわれる人々が約3分の1いると推定されている。精神病院には発病後の日常生活能力の障害も軽度で、必ずしも入院治療の必要がなく、むしろ本人を取りまく社会的条件のため入院している場合を社会的入院と呼んでいる。わが国ではようやく退院しても受け皿のない人のために本年度より財政的措置が講じられようとしている。ここ常心荘川室病院では、退院しても家のない人々のために共同住居(現行法の精神障害者援護寮)活動を昭和50〜54年にかけて開始し、当初は市内に5軒の借家を病院が借りて21名の退院者の共同生活の場を提供することから始められた。その後、共同住居は20軒に増え、われわれ一行が訪れたとき精神障害者地域生活援護事業(通称、精神障害者グルームホーム)「つくしの里」に発展していた。国の施策としてこの事業が始められようとする10年以上も前から、これらの事業に着手されていたことは、精神障害者にとって必要なことであれば国や地方自治体の補助金がなくとも病院が資金の100%を負担して運営されていたのである。よくぞこれだけのことをして倒産もせず現在も維持されていることに感心するとともに敬服せずにはおれない。川室優院長の将来考想をうかがったので、これを記して本稿のしめくくりとしたい。精神病院が急性期の患者を除いて抱え込んでしまう従来方式は改めなければならない。医療的ケアーをすすめながら地域コミュニティーケアーで患者を安定させるための拠点となる地域支援センターが是非とも必要であると強調されていた。これらの実現のためには、法の整備と地域住民の理解と協力が必要であろう。近い将来、再び訪問したい施設である。院長の考想がどのように展開しているのかをこの目で確かめたいし、その日の来ることを楽しみにしている。
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書 評

石元清英・金谷千慧子・田中欣和・葉賀弘・宮本由起代・山下明子・山村嘉己 共著
『ジェンダーとセクシュアリティ−〈性〉と〈生〉を考える−』
(嵯峨野書院、1996年7月刊)

源 淳子(委嘱研究員)

 本書は関西大学総合コース「女性論」の担当者が、そのテキストとして編集した。本書の「序章」は、「ジェンダーとセクシュアリティについて論じていくが、そこでのキーワードは〈自立〉と〈共生〉である。(中略)〈共生〉は女と男はもちろんのこと、女と女、男と男、すなわち、自立した人間どうし、みんながともに生かし合うことを意味する」と論じ、その解決を目指し、ジェンダーやセクシュアリティの性差別的状況にメスを入れている。また本書では、最初に執筆者座談会が編集され、執筆者のジェンダー観、セクシュアリティ体験が語られ、問題を身近に引き寄せて考えることができる。さらに各章には、「ワーク」が設けられており、「ワーク」では、読者自らの〈性〉と〈生〉を考える設問があり、各章で提起された問題を自らの問題として問い直す、自己啓発できるのも本書の特色だろう。
 各章のテーマは、山村嘉己「文学とジェンダー・セクシュアリティ」、石元清英「同性愛−その多様なありよう」、葉賀弘「さまざまな性−障害者の性、子供の性、老年の性」、山下明子「性の商品化−ポルノグラフィと買売春を考える」、石元清英「HIV/AIDS−エイズがわたしたちに伝えるもの」、田中欣和「性教育の意義と課題−自立と共生の教育」、宮本由起代「抑圧された性−性幻想からの自立と解放」の七論文であり、ジェンダーとセクシュアリティを巡る今日的な諸問題が取り上げられている。
 各章で提起されている性差別問題のなかで、セクシュアリティの問題は、もっとも公の問題となるのが遅れた分野であり、今もなお男性支配原理によってつくられてきた性文化の陋習によって、その多くは被差別的な問題として位置づけられている。つまり、セクシュアリティの問題は、個の問題に矮小化されやすく、なかなか公の問題として社会化されず、その解決のためには既成化された性意識という難問が山積しているのが現状である。
 ジェンダーとセクシュアリティの真の解放、つまり女と男、女と女、男と男の〈自立〉と〈共生〉とは、フェミニズムの課題であり、人類への新しい枠組みへの創造である。そして、その思想の営みには、まず女性の性の人権を認識するところから出発しなければならない。また、エロスの回復が、人間として豊かな〈性〉と〈生〉を生きる基本であるという、当然といえる認識が社会意識化されなければならないはずである。それは、長い歴史を通してつくられた性差別的なジェンダーとセクシュアリティが、若い人たちの意識にもすでに内面化されているという事実に基づいているからでもある。ジェンダーやセクシュアリティは、まさに文化の問題であり、我々の文化の基層をなしている男性支配原理をフェミニズムの実践によって切開する勇気を痛感する。本書を導きとして、二十一世紀を生きる若者たちが、これらの問題を自らの課題として、果敢に挑戦することを願わずにはおれない。
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研究学習会だより

開催日 1996年7月18日(木)
テーマ 「部落史の方法」
講 師 畑中敏之(立命館大学教授)、渡辺俊雄(部落解放研究所員)

吉田 徳夫(法学部助教授)

 七月に恒例の夏期合宿を行った。今回は部落問題研究班が担当に当たり、“部落史の方法”をテーマに掲げた。そこで最近、話題になっている部落史に関する著書を出された部落問題研究所の畑中敏之氏と部落解放研究所の渡辺俊雄氏をお招きして、著書の意図するところを伺った。畑中氏には『「部落史」の終わり』と題して、渡辺氏には『部落史の方法』と題して講演していただいた。
 畑中氏は近年相次いで『「部落史」を問う』と『「部落史」の終わり』を刊行された。後者の本の帯には「部落民は存在するか」と言う副題が添えられており、書名と言い副題と言い、刺激的な本であり、売れ行きも良好という話である。現在は特別措置法の期限切れという時期に直面しており、同氏も言及して居られるが、恰も“部落問題の終わりに”と曲解されているのではないかと危惧されている。畑中氏に対抗するように渡辺氏は『いま部落史がおもしろい』という本を出された。同書も売れ行きは良好だという話である。渡辺氏は現在進められている歴史の見直しと併せて部落史の見直しを主張されている。両氏は従来の部落史の研究方法に対する提言を行われているのであり、その方法論を伺うためにお招きした。
 畑中氏は、近世から連続する部落史の叙述という形式と、その連続観を支えてきた系譜観に疑義を出されている。畑中氏の見解は、近代と近世とでは部落問題は相違し、近代では天皇制の下における差別であり、近世の部落差別は社会的な差別であるという。同氏の専門領域である地主制に基づいた村落社会論により、同氏の言葉を借りれば近世の部落問題は「本村付体制」下における部落差別である。ここに非連続性を認めるという訳である。いわゆる部落起源論に関しては、中世との関係では単なる調整論で理解され、その限りでは連続説に近いのであり、中世起源説に立っていると見られる。
 渡辺氏は、歴史の連続性を主張され、断絶の歴史を否定される。そこで強調されることは歴史の重層性である。近世初頭の部落の起源論に対しては、政治的な断絶よりも中世からの連続性を認め、政治起源説を否