■人権問題研究室室報第17号(1996年6月発行)

東京都多摩地域を訪れて

谷 直介(委嘱研究員)

はじめに
 われわれ障害者問題研究班は1995年12月1日、2日の2日間で、東京都立多摩総合精神保健福祉センター(以下、多摩総合センターと略記)、精神障害者通所授産施設「ひあたり野津田」などを訪れ、東京都多摩地区の精神障害者の社会復帰の現状と課題を調査する機会があった。今回はその一端を紹介する。

多摩総合センター
 東京都立精神保健福祉センター、東京都立中部総合精神保健福祉センターに続いて3番目に開設された多摩総合センターは多摩市の多摩南部地域病院に隣接した所にあり、最寄りの駅である多摩センター駅(京王相模原線、小田急多摩線)から徒歩で約15分かかる。
 多摩総合センターは、精神保健福祉センター部門(地域保健部)と社会復帰部門(リハビリテーション部)の2部門に分かれて運営されている。そして、社会復帰部門は通所訓練部門(デイケア:定員40名、作業訓練:定員40名)と入所訓練部門(社会復帰病室:定員20名、宿泊訓練:定員40名)の2つの部門があり、社会復帰病室は病院としての機能を有しており、利用期間は原則3カ月で日常生活の基本を身につける訓練や服薬・金銭管理の自己管理訓練等を行い、社会復帰への心構えや能力を養って宿泊訓練への準備をすることを目的としているため、濃厚な精神科医療を必要としている精神障害者は入所できないとのことであった。もう一つの宿泊訓練(ホステル)は精神保健福祉法に規定されている精神障害者援護寮としての機能を有しており、利用期間は原則6カ月で個室を宿泊の場として提供し、自炊訓練等各種訓練及び援助を通して地域での自立した生活を行う準備を進めていくことを目的としているが、2週間を限度としたショートステイも受けいれているとのことであった。
 なお、通所訓練部門と社会復帰病室は保険診療適用機関であるため各種保険及び生活保護が適用されていて精神科診療の対象となっており、地域の精神科医療機関との連携・共存に苦労があるのではないかと思った。

ひあたり野津田
 社会福祉法人富士福祉会が運営主体となって1993年3月1日に開所された精神障害者通所授産施設「ひあたり野津田」は利用定員29名で、「富士作業所」(1978年)、「富士第二作業所」(1985年)、「あんしんFOODSひあたり」(1988年)の3カ所の無認可の精神障害者共同作業所を運営している富士グループの4番目の施設である。星野久志施設長によると、“より質の高く、よりふさわしい規模のより様々な場を、地域の中にふやしていくことをめざし”て、1992年に社会福祉法人・富士福祉会が設立され、「あんしんFOODSひあたり」での実績をもとに、あんしん食品(天然酵母パン、ふじのゴマクッキーなど)を扱う仕事を中心に据えた施設にしたとのことである。
 「ひあたり野津田」の作業内容は、1.軽食・喫茶スペースの運営と調理及び接客・販売サービス、2.あんしん食品の製造、3.あんしん食品の宅配サービス、4.近隣施設の清掃作業、5.各種イベント(地域交流事業等)の企画・実行などであり、常勤職員5名、非常勤職員2名のスタッフが通所者の指導・援助をしながら運営されていた。
 われわれは喫茶スペースでカレーとコーヒーの昼食を摂ったが、通所者が一生けんめいサービスに取り組んでいる姿が印象的であった。また、天然酵母パンやあんしんクッキーをおみやげに買ったメンバーもいた。

おわりに
 星野氏が、八王子市と日野市で共同作業所を運営しているスタッフや保健所のスタッフに声をかけてわれわれとの交流の場をつくってくれていた。新しい作業所というかたまり場「ATOM」でアルコールを飲みながらの会であったが楽しいひとときをすごすことができた。
 高知では、星野氏らと共に活動をしていた武田廣一氏が同様の施設をつくろうとしているが地元の反対運動があり遅々として進んでいない。地域差と言ってしまえばそれまでであるが全国各地で精神障害者関連の施設が地域にスムーズに設置されていくことを願っている。

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新研究員紹介

植松健郎(文学部教授)

 1980年、まだ学生運動が健在だったころに第一期大西学長が誕生した際、学生部長を引受けたのが人権問題に取り組むきっかけになった。その後、障害者問題委員会委員長を引き受けたが、そのころすでに女性問題、民族問題もとりあげる委員会をつくらねばならぬという気運もたかまっていたので、部落問題、民族問題、障害者問題、女性問題全体を扱う人権問題委員会を誕生させ、その初代委員長に選ばれた。部落問題研究室もそれに呼応して人権問題研究室に変わったと記憶する。
 学生部長時代から開設を要望していた「女性論」は、様々な困難を伴ったがとにかく総合コース「女性論」として1986年に発足してもらうところまでこぎつけた。なにしろ本学にはこの分野の専門家がいないため、最初は大部分を非常勤のスタッフに依頼して発足することになった。女性問題についての認識に乏しかった男性専任も研究会を重ね、私もスタッフの一員となったが1994/95年度の「女性論」最後の担当を全うした。思えば楽しく、やり甲斐のある講義であった。
 今年度より人権問題研究室の一員に加えられたが、所属は人種・民族問題研究班である。私にとっては新しい分野の研究である。自分自身の啓発のためと意識して努力していくつもりである。

鳥井克之(文学部教授)

 私にとっては三十余年来にわたるライフワークとも言うべき「中国文法学説史」の基本構想を600頁余りの著書にまとめ終えたので、今後はその修正と増補に力を注ぐだけになりました。そこで教員の世界に入る以前の十二年間、刷毛やスプレイ・ガンを手にして病院・学校・工場・会社などの大きな建造物から個人住宅の家屋までを塗装する仕事で東奔西走していた職人時代の私に培われた視点や発想を大切に再生しながら、かねてから問題意識を抱いていた人権問題に取り組みたいと考えていました。
 図らずも今回その機会を得て、人種・民族問題研究班に所属することになりましたので、まず二昔程前に『関西大学通信』第87号(1978/10/15)の第7面全体にわたって紹介した「中国西南地区の旅−少数民族教育参観記−」をさらに掘り下げて考察したいと考えています。具体的には少数民族を対象とする小学校から各地にある民族学院及び北京の中央民族大学に至るまで、少数民族にはどのように初等教育から高等教育までを受ける機会が保証されているかを解明したいのです。
 最終課題としては日本人として避けて通ることのできない日中戦争期に日本の侵略により中国の小学生から大学生まで学習の機会を奪われた実態の解明と在日中国人問題、特に日中戦争期に日本へ強制連行された中国人労働者の問題に取り組むべきだと考えています。
 新参者ゆえ、何卒よろしくご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。

村上雅康(文学部教授)

 私の専門は経済地理学で、そのうちでも工業地理学の分野で近代造船所の立地と展開を主たるテーマとして研究して来たため、あまり人権問題には関連しない分野を歩いてきたと考えておりました。所が、私が関大へ採用される人事で審査委員のお一人であられた吉田永宏先生から『あなたの業績審査の時に拝見した「奈良県地場産業の経済地理学的研究−磯城郡田原本町の事例を中心に−」という奈良教育大紀要の論文は、部落産業も扱っておられ、多分部落に関心もあり研究もされていると思われますので、人権問題研究員に推挙しておきました。』と言われて、大変驚きました。何しろ、前任校の国立大学での教授昇任には、論文の点数稼ぎが必要でしたし、この論文は、共著者の自分としては恥しいと思う論文の一つでしたから。このような論文が、自分の新しい分野の道を切り開くステップになるなんて思いもよりませんでした。ただ、前任校時代から、同和教育推進協議会の講演等にはよく参加していましたから、関心がないわけではありませんでした。さらに申すなら、1987年に相生市史第3巻の一部を執筆した時、第二次世界大戦時の造船所の労働力問題を書いた文章のうち、朝鮮人・華工・刑務所収容者・蘭系捕虜等が強制労働された旨の叙述部分とその建物写真が当時の編集者により没になったという苦い思い出があります。そして、近年「ハワイの砂糖産業の衰退と労働力の変容」というテーマで研究を続けるなかで、日本人労働力も差別されていたことを知るにつれ、人権問題が大変大切な分野である事を認識しはじめた所です。何しろ、新米の未熟な研究員ですが、何かとご教示下されば幸です。皆様の足手まといにならないよう頑張りたいと思っていますのでよろしくお願い申し上げます。

佐藤裕子(文学部専任講師)

 私が初めて人権という言葉を意識したのは恥ずかしながら非常に遅く、大学を出て外国へ行き、マイノリティと呼ばれる様々な民族の集団が各々問題を抱えながら働いたり暮らしたりしている社会を経験した時でした。この時、例外もありますが、文化的、宗教的なバックグラウンドの異なった人々が一つの社会で互いを理解しながら共存していく難しさを痛感しました。
 しかし人権侵害や、人権問題はいわゆる「多文化社会」だけでのことに限らず、私たちが生活する社会でも日常発生し続けています。人間は誰もが自己と他者を区別し、区別から差別が生まれ、また誰もが自分が生まれ育った環境に支配されて、その極く短い経験の物差しで他者を測ろうとして偏見が生まれます。誰もがその偏見からは自由ではありません。しかし差別や偏見は極めてネガティブなものです。個人や社会が問題に直面した時、ある種の短絡的な間違った解決手段として利用されることはあっても、そこからは人を幸せにするものは何一つ生まれないでしょう。また人権は勉強し、努力して守って行くものだと知りました。
 4月からこの人権問題研究室のメンバーに加えていただき、私たちが直面している差別問題や、人権問題のことを勉強しながら、人を幸せにする社会について考えていきたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

山下一美(工学部教授)

 本年4月より人権問題研究室部落問題研究班の研究員を拝命いたしました。
 私の専門は「情報通信」で、マルチメディア、インターネットとにぎやかに騒がれている分野に属しています。人間のコミュニケーションはいかにあるべきか。その目的に照らして現在の通信システムは要求を満足しているかが問われ始めています。
 我々は人間と人間の間で多様な手段によって情報のやりとりをしています。しかし、よく考えてみると、人間の対面コミュニケーションにおいて感性は欠かせないものです。決して会話だけから相手人物を評価しているのではありません。まさに五感を働かせた結果を自分の判断材料としていることがよくわかります。
 通信の終局的な目的の一つは、対面コミュニケーションに代わる手段を提供することであります。これまでの通信システムは、人間の情緒的活動に対して貢献しているでしょうか。否であります。感動を通信システムで伝えることに挑戦するのが通信技術者の夢であり、マルチメディアがその大きな武器になると考えられています。「通信」技術が、心と心が通い合う「通心」になれば、差別問題に少しは貢献できるのではないかと考えています。

住田一郎(委嘱研究員)

 現在、部落差別問題をめぐる状況は大きな転換期にあります。部落差別問題の解決にとって重要な被差別部落住民を取り巻く実態的差別現象(住環境の整備、仕事保障、教育諸条件の整備等)はこの間の同和対策事業で改善されてきました。20年前に被差別部落をあとにした出身者が見紛うほど環境整備は進んできました。
 しかし、ある被差別部落出身者が私に疑問を投げ掛けた次のような課題は今だに未解決であり、同時に議論すらされてこなかった問題です。「住環境の改善は必要でしょうが、住宅がすべて市営の鉄筋住宅となり、その中心に解放会館をはじめとする公共施設が配置されている街づくり計画に住民からの疑問や反対はなかったのですか」との問題提起。実は彼の本心は「劣悪な状況=印で、まわりから差別されてきた被差別部落が、同和対策事業によって改善されながらも被差別部落の“看板=印”を掲げ続けるのなら以前と現象は違ってもここが被差別部落であるという“印”を公にすることに違いはない。」なぜ、そのようなことをするのかにあったのです。
 私たちの運動は被差別部落が劣悪な形で放置され、顕在化させられてきた歴史的事実のうえにたって、これまで「寝た子を起こす」取り組みを進めてきました。彼の疑問に答えるためにも、特措法終焉後の取り組みではこれまで以上に被差別部落住民一人一人が自ら「部落を名乗る・語る」行為の重要性について考えていきたい。部落差別問題解決にとって必要不可欠な人と人との対話を推し進めるためにも私は「名乗る行為」が必要だと考えています。この点を委嘱研究の課題ともしたい。
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研究学習会だより

障害者問題研究班
開催日:1996年3月15日(金)
場 所:彦根荘

盲ろう者の自立に向けた支援について

慎 英弘(委嘱研究員)

 盲ろう者とは目と耳の両方に障害を併わせ持つ人のことである。さらにこの上に言語障害や肢体障害が重なっている者もいる。世界的に有名な盲ろう者としてはヘレン・ケラーを挙げることができる。
 このような盲ろう者が日本には約2万4千人いると推定されている。しかし、盲ろう者の生活実態はほとんど判っていない。したがって、盲ろう者を対象とした福祉制度はこれまでは全くと言ってよいほど無かった。
 1980年代になって、東京と大阪で盲ろう者が大学に入学した。これをきっかけにして盲ろう者の存在が顕在化し、盲ろう者支援の輪が広がっていった。
 そして現在では、全国9都道府県に「盲ろう者友の会」(地域によっては名称が多少異なることもある)が組織され、独自の活動を展開するに至っている。
 1995年には、大阪市で、盲ろう者支援のための通訳・介助者養成講座が公的機関としては日本で初めて実施された。そして今年4月からは東京都で、7月からは大阪市で盲ろう者への通訳・介助者派遣制度が実施されることとなった。これは日本の福祉行政史上初めてのことである。これを機に盲ろう者の生活環境が画期的に変わることは疑う余地がない。20世紀も終わりになって、やっと盲ろう者の人権が社会的に認識される状況になった。

障害児の人権と学校教育

堀 正嗣(委嘱研究員)

 現在、国際的にはノーマライゼーションの理念に立って障害児が健常児と共に教育を受けること(統合教育)を追求することが、学校教育における障害児の人権保障の基本的な方向になっている。
 日本においては1993年12月の「障害者基本法」の成立以降、「リハビリテーションとノーマライゼーション」を基本理念として、「完全参加と平等」をめざして国および各自治体において障害者計画が策定されつつある。しかしながら教育の分野においては従来の分離教育の体制が維持されており、改革への動きは鈍い。1993年度に「通級教育」が導入され、また「市町村障害者計画策定指針」に「交流教育の充実」が明記され、「特殊教育」の改革に向けての胎動があるようにも見える。また専門家の間でもインテグレーション、インクルージョンヘの注目が高まってきている。
 このような状況の中で、これからの障害児教育の方向として「競争の教育」から「共生の教育」への教育観の変革が求められる。そして、障害児教育概念そのものを「特別な教育」から「特別な教育的ニーズをもつ子どもへの教育的支援」に変革し、「a.通常の教育の場において障害児が実質的に学習活動に参加しうるように援助する」、「b.全ての子どもが参加できるように、学校及び教育活動のあり方を変革する」という2つの方向において教育実践を創造していくと共に、制度改革を進めていく必要があると考える。
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書 評

田中 充 編著
『日本の経済構造と部落産業−国際化の進展と中小企業の課題−』
(関西大学出版部、1996年4月刊)

上田達三(社会学部教授)

 著者は前著『日本経済と部落産業』(解放出版社、1992年)において、日本経済の内なる構造問題にメスを入れ、日本産業の最末端に位置する部落産業が、生活必需品の生産をはじめ日本の文化・芸術・工芸を支えてきたにもかかわらず、不当な差別を受けている実態を鋭く問題指摘したが、本書では国際的視点に眼を広げ、大企業と中小企業の望ましい関係:合理的な社会的分業関係、の樹立を目標とした産業発展の課題解決を見据えつつ、前著を理論的、実践的に充実発展させた。
 1章:部落産業に関する基本的認識=部落問題が内包する産業の側面に焦点を絞り、日本経済の構造的特質との関連から考えなおすべき原点:基本的認識を纏めて提示する。
 2章:貿易自由化・輸入の制度的変化と皮革靴産業へのインパクト=国際化の進展、自由化の荒波が部落産業を直撃しているシビアな実態の分析結果から、企業者自らの企業家精神の発揮と、それを支援・育成する抜本的な行政施策の必要性を強調する。
 3章:日本の経済社会と部落産業問題
 4章:日本経済と部落問題=部落産業問題を産業構造・産業組織の視点から理論的・実証的に問題指摘した上で、部落問題の解決・差別撤廃に向けての課題を提起する。
 5章:部落産業発展のための課題−産業社会における基本的人権の確立をめざして=部落産業に直接かかわり、その中心的指導者や若手の経営者たちが、副題にある問題意識に沿った部落産業の飛躍発展に向けての運動や企業家精神などを対談、座談会の形で紹介しつつ、実践的課題を追求提起する。
 6章:ゆれ動く世界と中小企業問題=国際的観点から中小企業の展開とその問題研究の潮流を見極めつつ、部落産業、中小企業の内外環境変化への対応を探求する。
 本書は部落産業の望ましい発展に向けて実践的研究を続ける著者の情熱が行間に秘められた、啓発されるところ多大な労作である。
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書 評

源 淳子 著
『仏教と性−エロスヘの畏怖と差別−』
(三一書房、1996年1月刊)

山村嘉己(文学部教授)

 フェミニズム運動が法改正、経済改革−とくに労働面での平等化−など、制度的、現実的な改変と、それら現実を支えるイデオロギー−宗教、哲学、文学−などの根本的な見直しとの両面にわたって、広く深く展開されねばならないことはいうまでもない。しかし、どちらかといえば、後者の実践は必ずしも十全とはいえない。源さんは大越さんや山下さんらと手を携え、とくに宗教の面で根強く問題の追求をされてきている。今回の『仏教と性』は、その宗教と性の関係を、とくに仏教、それも日本における仏教思想を丹念に解明することで明らかにしようとした意欲的な作品である。
 第一章「仏教と性」の冒頭で「宗教が性を肯定するか否かの問題」を考え、それによって「女性の生き方がどのように規定された」かを明確にすると宣言したかの女は、原則的に、自然宗教は性を肯定的にとらえ、キリスト教、仏教、イスラム教など、後から出て世界的な宗教となったものは概ね否定的にとらえている事実を指摘しながら、「制度的なプロセスからいえば、それらは父権制と結びついた宗教である」と述べている。しかし、それがあまりにかんたんな図式化であることを戒めながら、かの女は日本の仏教の女性観を根気づよく点検し、それが民俗的な自然宗教を巧妙にとり入れながら、いかに日本の女性を束縛していったかを明らかにしようと試みるのである。もともと、「男性の心のなかで『女』という謎にたいする不可思議の念が凝って性恐怖となる」(シューバルト)のは、エロスの世界という情念の嵐に男性が弱いためで、宗教によってそれへの規制を行おうとしていることは明らかだが、仏教はそれを「女は業が深い」とか「女は汚れている」といった考え方を導入し、それと神道の浄穢思想をたくみに組み合わせて、男性優位の体制を作りあげていくことに協力したのである。源さんが指摘するように、その教えの支配力をもっともつよく受けたのが女性自身であることは皮肉なことだが、それが男性支配体制の狡猾な仕組みであることに早く目ざめ、そこからの脱出をはかることが女性にとって−そして男性にとっても劣らず−重要なことではなかろうか。その意味で「浄穢思想」の分析などはとくに綿密に読まれるべきであろう。
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