■人権問題研究室室報第34号
 (2004年 12月発行)
瀋陽市朝鮮族第一高級中学中央教学棟
    瀋陽市朝鮮族第一高級中学中央教学棟

2004年夏中国朝鮮族教育事情調査報告

鳥井 克之(外国語教育研究機構教授)

   
 2004年9月13日午後1時10分、鳥井克之、熊谷明泰両研究員は関西空港より日航「JL 5182」に搭乗して中国東北地区最大の都市瀋陽市(旧奉天)南郊にある桃仙空港に飛 んだ後、宿舎の遼寧大学五州園賓館に向かった。14日午前に遼寧省朝鮮族師範学校を 、午後に瀋陽市朝鮮族第六中学を、15日午前に瀋陽市朝鮮族第一中学をそれぞれ訪問し て視察した。15日夜に瀋陽北駅より寝台特急列車「K54」に乗車して翌日朝北京駅に到 着した後、宿舎の北京大学勺園に赴いた。16日午前に中央民族大学を訪問して民族博 物館を見学した後、国際交流担当の責任者たちと面談した。その後、北京在住の朝鮮 族の人との対談、在中国韓国企業の子弟のために開設された韓国人学校の見学、図書 館・書籍専門百貨店での資料調査収集に時間を費やした後、19日午後1時55分、北京 国際空港から日航「JL786」に搭乗して帰国の途に就いた。紙幅の都合により特に遼寧 省朝鮮族師範学校、瀋陽市朝鮮族第一中学と同第六中学について調査報告する。
遼寧省朝鮮族師範学校
      遼寧省朝鮮族師範学校正門
(中央に立つ方が宋佑燮譯審)
           
      遼寧省朝鮮族師範学校の授業風景 
          
           
      瀋陽市朝鮮族第六中高一貫校(六中)の授業風景
                
           
 この師範学校は瀋陽市の旧市街地北部に所在する遼寧省唯一の省直属の朝鮮族の学 校である。校長の金尚女高級講師、副校長の朴子潤高級講師、弁公室主任の朴太紅氏 が応対してくださった。この学校は1952年に創設され、1998年に五年制の専門学校(日 本の「高専」に相当)となり、主として遼寧省朝鮮族小学校の教員養成を目的として いるが、同時に経済と文化発展に寄与する朝鮮語、中国語、英語または日本語の「三語」 に通じた通訳も養成している。創立後半世紀余りの間に約6000名の卒業生を送り出し た結果、全省の朝鮮族小学校教員の90%を卒業生が占めており、それ以外に中国共産 党全国大会代議員、国会議員、全国優秀教員に選出された卒業生もおり、最近数年来 には外国合弁企業に勤務する卒業生が好評を博しているために、企業より引く手数多 とのことである。
 当初は師範学科のみであったが、現在では遼寧省内の朝鮮族初級中学卒業生から選 抜して5年間勉学する小学教育(一年次定員40名;年間学費2800元)、英語教育(40名: 3300元)、美術教育(20名:3100元)、音楽教育(20名;3100元)、非師範系の秘書養成 および朝鮮族以外の初級中学卒業生から選抜して5年間勉学する韓国語(40名;3300 元)の6学科を擁し、さらに中国の四年制大学を受験する韓国人留学生を受け入れる中 国語研修一年間コース(40名;3500元)を開設している。
 優秀な成績で入学した新入生には入学初年度に年間3000元の奨学金を与え、三年修 了時の成績が優秀であった学生には遼寧省直轄四年制大学六校の師範系学科受験に推 薦し、また二年修了時には四年制大学通信教育の並行学習を認めて、「学士」号取得の 道を開いている。奨学金には学内奨学金と外国人・企業賛助奨学金の二種類あり、前 者は成績により一等奨学金(月額100元;在籍者数の5%)、二等奨学金(60元;15%)、 三等奨学金(30元;50%)があり、後者は成績優秀あるいは経済的に苦しい学生に対 して不定期に給与されている。面談の後、朴太紅氏の案内でパソコン教室、LL教室、 実験室、舞踏ホール、ピアノ練習個室20室、図書室書庫等を見学して辞去した。
瀋陽市朝鮮族第一中学(一中)と瀋陽市朝鮮族第六中学(六中)
 両中学はかつて本校と分校の関係にあったことが、第六中学桂鳳梧校長と第一中学 白聖男校長を訪問・取材して分かった。話によれば次のような経過を経ていた。即ち:   瀋陽市朝鮮族第一中学は1948年12月1日に創立され、当初は「瀋陽市朝鮮族人民中学」 と命名されたが、1951年に「瀋陽市朝鮮族中学」と改称された。1955年に全省で学生 募集を行い、同時に「蘇家屯」分校を開設したが、1956年にその分校が独立して「瀋 陽市朝鮮族第二中学」と命名され、最初に設立された本校は「瀋陽市朝鮮族第一中学」 と校名を改めた。1978年に遼寧省第一次重点中学に選ばれ、同年に朝鮮族が多く居住 している「西塔」に分校が開校されたが、この「西塔」分校も独立して「瀋陽市朝鮮 族第六中学」になったという次第であった。
瀋陽市朝鮮族六中生徒の書取練習風景
        瀋陽市朝鮮族六中生徒の書取練習風景
 一中はその後1982年に「完全中学(中高一貫校)」から「重点高中(高校のみ)」に 発展し、2000年8月、現在地に移転したキャンパスに新しい校舎等建造物が完工して、 新学年度が始まった。キャンパスは市街地の東北部にあり、その総面積は8万5千uあり、 校舎・事務棟11120u、体育館3889u、学生食堂1729u、学生宿舎5580u、一周400mの トラックを有する標準グランド、スタンドおよび諸施設、庭園と緑地帯で構成された 環境が静かで優美であった。校舎には普通教室以外に階段教室、実験室6室、LL教室 3室、録音室、パソコン教室134台、図書室、閲覧室等が完備していた。
 高1から高3まで全部で20クラス、900余名の生徒がおり、教職員は全部で105名、そ の内専任教員は78名(高級教師28名、一級教師25名)であり、生徒と教職員が一体と
瀋陽市朝鮮族六中での文字・発音指導風景
        瀋陽市朝鮮族六中での文字・発音指導風景              
なって「敬業、厳謹、勤奮、高効(学業を敬い、慎み深く、勤勉で、高い成果を)」を校是と して努力している高校である。創立後半世紀余りの間に初級中学卒業生は34期7903名、 高級中学卒業生は40期8781名を送り出している。その高卒者の約半数4389名が大学・ 高等専門学校に進学し、最近十数年間に全国統一大学文系入試において遼寧省の「状 元(科挙の首席合格者)」を6回、理系は1回獲得し、この数年間では卒業生の95%が大学・ 高専に進学している。なお授業は終始自民族言語である朝鮮語の口頭語と書面語で行 ない、その教育水準の高さは省の内外において定評があることも強調していた。
 六中は先にも触れたように市街区の中心部にある分校であったため、規模はそれほ ど大きくはないが、毎年北京大学や清華大学等の最重点大学に卒業生を送り出してい ることを校長が誇らしげに話していた。師範学校では授業風景を廊下から少し眺める だけであったが、六中と一中では特にお願いして日本語の授業を生徒の椅子に腰掛けて、 たっぷり一時間参観させていただいた。教員・生徒が一体となって真剣に授業を行なって いた。両中学でも韓国との実質的交流の一斑を垣間見ることが出来た。六中を去るとき、 校門近くの校舎に「韓国語学院」の看板が見えたので、中に入って話してみると韓国 人が設立した学校であった。一中では校長が掛かってくる電話に何度も応答しながら、 私達に気もそぞろに対応していたが、参観を終えて校舎を出ると、韓国のある地方自 治体教育関係者訪中団をハングルで明示したラベルを運転手前方のガラス上部に張っ た大型観光バスが駐車していた。
瀋陽市朝鮮族第一高校の授業風景
        瀋陽市朝鮮族第一高校の授業風景            
瀋陽市朝鮮族第一高校生徒机上
        瀋陽市朝鮮族第一高校生徒机上            
 最後に今回の瀋陽滞在と三校訪問・調査の仲介の労をとって下さった元遼寧大学日 本研究所副所長、現遼寧省訳審(翻訳者・通訳者の最上位の職階名で大学教授に相当 する)であられ、私が畏敬している宋佑燮先生に深甚の感謝の意を表わしてこの拙文 を結びたい。
    (外国語教育研究機構教授)
中央民族大学正面(熊谷明泰研究員)
        中央民族大学正面(熊谷明泰研究員)            

 
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      沖縄県公文書館のことなど  

小林丈広(委嘱研究員)

   
 2000年9月、人権問題研究室の調査活動の一環として、沖縄の調査に同行させていた だいた。かねてより沖縄問題に造詣の深い田中欣和氏を案内役に、市川訓敏氏、源淳 子氏とともに参加させていただいた私には、行程のすべてが新鮮であった。先日の米軍 ヘリコプターの事故に関する報道も、その際に沖縄国際大学を訪問し、そこで活動し ておられる石原昌家氏からお話しをお聞きするという経験をしていなければ、日々の ニュースのひとつとしてやり過ごしていたかもしれない。石原氏との出会いには、も うひとつ大きな収穫があった。南部戦跡に建つ平和祈念資料館の展示企画に参加して いた石原氏から、その過程で起きたさまざまな軋轢や問題点をお聞きできたことである。 「歴史」に関わる仕事をしている私には、沖縄問題をより切実に考える大きな手がか りが得られたように感じられた。
 そもそも南部戦跡は、沖縄の方だけでなく「日本人」が歴史と向き合うには格好の 場である。その場を一巡するだけで、「日本人」の祈りの様々な形に出会うことができる。 祈りは、一見すると内から沸き上がる自然な感情であるように思われるが、その実、 どのような祈りも政治や社会によって組織され、構築されることによって形をあらわ すものであることがよくわかる。祈ることは大切なことだが、どのような祈りの形を 作り上げていくのかが、今まさに問われているのである。その後も、私は個人的に沖 縄を訪問する機会があったが、その都度、四年前の調査旅行を反芻し、追体験させて いただいている。
沖縄県公文書館
沖縄県公文書館              
 ところで、その調査で訪問した施設や団体の中に、沖縄県関係の古文書や行政文書 を収集し、展示や閲覧に活用している沖縄県公文書館があった。那覇から少し離れた 南風原町にあるその建物は、沖縄風の民家を模した広壮な外観で、これまで各地の文 書館を見慣れた私には予想外の大きさに圧倒された。そして、そこで行われていた展 示「琉球国王表文奏本展」を見て、その内容の濃さにあらためて驚かされた。
 私たちが普段「歴史」に触れることができる場所としては、博物館という施設が知 られている。自治体などの設立している博物館の多くは、あらかじめ常設展などでそ の地域の歩みを示したり、すでに著名になっている美術品などにスポットを当ててそ こに観覧者を誘導するなど、「歴史」の見せ方も定式化している。いわば、見せる側の 歴史観を市民に見せて楽しませる場となっていることが多い。しかし、平和祈念資料 館の展示問題でもわかるように、それはあくまでもひとつの歴史観にすぎない。
 それに対して、あまり知られていないが、私たちが「歴史」に触れることのできる場 所として、文書館というものがある。こうした施設の中には中世までさかのぼるよう な古文書を所蔵している機関もあるが、最近の傾向として行政文書の保存機能を併せ 持つことが多くなっているので、公文書館という名称を付けた施設が増えてきている。 自治体によっては、博物館と併設になっているところもあるだろうから余計にわかり にくいが、博物館と文書館の違いは次のように考えられないだろうか。「博物館は歴 史を見せる場所で、文書館は歴史を検証する場所である」と。
 文書館は、歴史観を押しつけない。あえていえば、文書を保存することが重要だと いう価値観さえ共有できれば、それ以外は、利用者にすべて委ねられるのである。ただ、 博物館に比べると社会での認知度が低い現状では、文書館はまさに設置主体の国や自 治体の見識を計る物差しにさえなっているといえるであろう。
 沖縄県公文書館を支えているのは、失われた文書に対する思いの強さであろう。周 知のように、沖縄は長い間、薩摩藩や明治政府などによる支配によって、琉球国以来 の独自の文化を守ることすら困難な状況にあった。そこに、沖縄戦によって島全体 が戦場になるという事態が生じ、戦前までの古文書や行政文書はそのほとんどが失わ れたといわれる。その後、米国による占領、日本への復帰という過程を経ても、島全体 に島民の主権が及んでいるとは到底いえない状況が今も続いている。そのような中、 自治への渇望は失われた文化に対する強い思いを生み、文書の収集・保存運動にまで 及んでいるのである。
 沖縄県公文書館で発行している図録の中に、「異民族支配」からの独立という一節を見 つけた時、あらためて自治に対する強い思いを知った。文書館が、そうした思いを支え、 市民の学習の場となっていることに感銘を受けた。「歴史」を学ぶことの醍醐味がそこ にあると感じられたのである。
(委嘱研究員)

 
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フライブルグ教育大学「移民統合研究所」について

杉谷 眞佐子(外国語教育研究機構教授)

 
 フライブルク教育大学「移民統合研究所」(Forschungsstelle Migration und Integration an der Padagogischen Hochschule Freiburg)所長Dr.ギドー・シュミット氏は、バーデン・ ヴュルテンベルク州文部省(因みにドイツの文部行政権は各州に所属する)の委嘱を 受けた「異文化教育専門委員」としても活躍するドイツの代表的な「第2言語として のドイツ語教育及び教員養成」の専門家である。彼は人権問題研究室研究員である小 川悟名誉教授の招待で、1997年1ヶ月招聘研究者として来学され「第2言語習得の教授 理論」の講演をされている。また2001年9月「関西大学人権問題研究室開設25周年記 念」での国際シンポジウム『民族と国家を越えて―国際化時代における人権』で「外 国人児童のドイツ語授業」の講演をされているので、記憶されている方も多いと思う。 このたび2004年3月13日より18日まで宇佐美幸彦教授と共に記研究所を訪れ、外国人 児童や移民児童への言語教育のあり方や教員養成に関し調査する貴重な機会を得たので、 以下に報告したい。
「移民統合研究所」所員
「移民統合研究所」所員。右から二人目がシュミット氏
 フライブルク市は、シュヴァルツヴァルト(黒い森)が広がる南独にありフランス と国境を接して古くから交通の要所として知られた歴史的な街である。最近は都市全 体の環境保全への積極的な取り組みでも国際的に有名になっており、日本からの視察 訪問も多い。人口は約20万人で大都市ではないが、同市があるバーデン・ヴュルテン ベルク州はドイツ第3の人口を抱え、諸産業の中心地である(州都はシュトウットガ ルト)。移民労働者や外国人市民の割合はドイツ全16州のなかで最多、約12,5%である。
 同州は地理的環境から歴史的にイタリア人移住者が多いことが外国人市民が多い一 因として挙げられるが、1960年代からのトルコ人労働者の定住、家族や2世代・3世 代の配偶者の呼び寄せ、旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナからの難民や 移住者の増加もその原因である。さらに「外国人」ではないが、母語がドイツ語ではな い旧ソビエト連邦諸国・東欧諸国からの移住者やその配偶者たちの数も、東欧の民主 化後、増加傾向にある。
 このような人々がドイツ人と共存し多文化の市民社会を形成していくためには、職 業の(再)訓練が必要になることが多い。しかしそのためには、ドイツ語の学習が不 可欠である。ドイツ語力の不足は母国で習得した職業資格認定 にも影響を与え、経済基盤の弱体化に通じることが少なくない。
 子供達はある意味でもっと大きな試練にあっている。通常、 政情不安や経済的理由などで故郷を捨てざるを得なくなり異国 の地へ「移住」する、或いは難民となり移住せざるを得なくな る、という状況は成人にとっても大きな決断を要するが、子供 たちにとっては計り知れない様々な変化をもたらす。ある日突然(殆ど の場合、「行きたいかどうか」など自分の意志を聞かれることもなく)住み慣れた環境 から引き離され、言葉も通じない異郷で、多くの場合あまり好意的でない視線や応対 に晒されながら成長することを意味する。また頼りとする親や周りの大人たちは経済 基盤の確立・維持に忙しく、子どもたちの情緒不安や心的外傷などに充分に対応でき ない状況にあることが多い。
 そのような子どもたちにとりドイツでドイツ語を学習することは、新しい文化圏で 自己を形成し社会化する際の重要な手段を手に入れることを意味する。ドイツ語はま わりの世界とのコミュニケーション手段であり、同時に、学校で種々の知識を学び思 考の世界を広げる手段でもある。さらに、自己を確認し思考や感情を表現する手段に もなり得る。
 特に義務教育期間中、移住を余儀なくされた子どもたちは、新しい学校教育に慣れ るのに大きな戸惑いを感じている。「イマージョン」という方式を取り「子どもを外 国語環境に浸せば、いつかは自分で泳ぐことを覚えるだろう」という国や文教政策も あるが、ドイツの各州は補完的な母語教育を含め、移行期の何らかの対応を、最近の 不況下、時に予算削減を伴いながらも、公的予算で行っている。バーデン・ヴュルテ ンベルク州では、全ての移民児童が1〜2年準備クラスを受け、そこでドイツ語の学 習と、ドイツの学校教育の学習様式に馴れるための教育期間を設けている。「言葉が できれば、他の科目は自動的に学習できるだろう」と思われるかもしれないが、子ど もたちは言葉で表現する内容自体を経験していないと、単に言語だけで説明されても 内容が把握できないことが多い。そのような時、例えば、移住先の生活経験を適切な 言語で理解・表現し、自己の思考材料に抽象化・転換するための訓練を受けていると、 「理科」「社会」など、学校での学習の大きな助けとなる。シュミット氏は従って、言語 教育が他教科の理解・表現力の基礎を創ることを強調され「生活言語」(Basic Inter personal Communic ative Skills, BICS)としてのみでなく、「学習用言語」(Cognitive/ Academic Language Proficiency, CALP)としての第2言語習得の重要性を強調されて いた。因みにシュミット氏がP.フレイレの思想を取り入れ、コミュニカティヴ・アプ ローチに準じて開発され、「説明する・記述する」などの学習用言語運用も取り入れ た実践的教授方法は「フライブルクモデル」として知られている。氏はさらに、潜在的 問題を抱える可能性がある科目として「算数」を指摘された。一般に国語・算数は義務教 育の基礎段階で各国が重視しているが、その計算方法や定式化の文化的相違から来る 認知処理の困難性に、教師の側が気づかないことも多いという。
 フライブルク教育大学は体系的な教員養成に取り組んでいることもあり、学長表敬 訪問の際も「異文化共存」や「多文化社会の形成」という新しい課題に、第2言語・ 外国語教育が、例えば教科横断的な教授能力の育成などを通じてどのように貢献でき るか(すべきか)、が話題となった。外国人児童や移民児童を受け入れ、彼らが社会の 一員として生活能力を獲得するために必要な学校教育や教員養成の制度を整えることは、 基本的人権の観点からも日本を初め多くの「先進工業国」がグローバル化の中で抱える課 題であろう。「移民統合研究所」というドイツでもユニークな第2言語・外国語教育研 究やその実践から、今後も学ぶことは多いように思われる。

2) 「アンネ・フランク小学校」(学校訪問先) 
「アンネ・フランク小学校」(学校訪問先)
 このクラス21名の生徒の出身国はドイツ
    を含め全11カ国に亘るという。

(外国語教育研究機構教授)
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関西大学吹田市民人権講座

石元 清英(社会学部教授)

 
 人権問題研究室では、研究成果を社会に広く還元し、学内外における人権意識の向上に 寄与すべく、1995年から公開講座を年4回、開催してきた。本年11月には40回を数え、学 外からも多くの方々が聴講に来られ、人権問題研究室の中心的な行事のひとつとして定着 したといえる。そして、人権問題研究室開設30周年を迎えた本年、公開講座開講10周年記 念行事として、吹田市、吹田市教育委員会との共催による「関西大学吹田市民人権講座」 を開催した。この講座は、研究成果を社会に還元するという、これまでの公開講座の趣旨 を地元自治体との連携による学外での講座実施によって、よりいっそう成し遂げようとす るものである。
 講座は7月30日(金)午後1時より、吹田市メイシアター(文化会館)集会室で行われた。 開会にあたり、吹田市助役である荒起一夫氏と人権問題研究室の吉田永宏室長の挨拶があ り、両氏とも、これからの時代における大学と自治体との連携の重要性を強調された。講 演は、「現代社会と女性の人権 − 女と男の共生をめざして −」(石元清英研究員)子ども の人権」(源淳子委嘱研究員)という2つのテーマからなり、それぞれ90分間、行われた。
関西大学吹田市民人権講座
関西大学吹田市民人権講座
 これらの講演については、その記録が『人権問題研究室紀要』第50号に掲載されるので、 講演の内容には詳しくふれることはしないが、石元研究員の講演では、新聞や雑誌などの記 事をふんだんに入れ込んだ資料を用いて、日常のありふれた出来事のなかにも男女の非対 称が随所にみられること、そして、女性と男性との関係のゆがみの象徴が性暴力であり、 その背後には男女間の権力関係があることなどが話された。また、源研究員の講演では、 近年、社会的関心が高まってきた子どもの虐待について、その主たる原因を個人的要因、 社会的要因、環境的要因の3つから説明され、虐待が子どもにもたらす影響の深刻さについ て話された。
 これらの2つの講演は、いずれも身近な問題を通して人権について考えるものとなって おり、ともすれば「ひとごと」「他人ごと」ととられやすい人権問題が自分自身に関わる 問題であることを示したといえる。
 当日の参加者は98名で、それぞれの講演に対しては、参加者から意見や質問が数多く出 された。

(社会学部教授)
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編 集 後 記

吉田 徳夫(法学部教授)

 2004年度は激動の年であった。イラク戦争 はなお継続し、日本の自衛隊も派遣延長が決 定され、我々をとりまく環境は軍事問題にと って代りつつある。日本国内でも北朝鮮によ る拉致被害者問題が、軍事とナショナリズム の文脈の中でとりあげられ、軍事とナショナ リズムが大きな問題になりそうである。
 今回の室報に寄せられた報告の中で、中国 朝鮮族教育事情、フライブルグ教育大学「移 民統合研究所」が、本研究室の活動の一端を 示すが、翻って、こうした問題が日本国内で も大きく取り上げざるを得なくなる日が近い。 つまり、今年、日本政府はフィリピンとのF TA交渉の中で、もの移動のみならずひと の移動に関する協定に一定の結論に達した。
 今後、難民以外に労働者の移民が始まる。 ドイツの事例報告に類する問題が日本でも 論議の対象となる。ナショナリズムと移民 受入れの相剋の時代がやってきそうである。
(吉田徳夫)

 
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