■人権問題研究室室報第26号
 (2001年1月発行)
沖縄県立平和祈念資料館
沖縄県立平和祈念資料館

北朝鮮紀行

熊谷明泰(外国語教育研究機構教授)

 縁あって、2000年7月13日から7月20日まで「北東アジア経済協力に関する金森委員会訪朝団」の一員として、朝鮮民主主義人民共和国を訪問する機会を得た。新潟空港からウラジオストック経由で平壌空港に着いたのは夜8時。薄暗い空港ビルで入国審査を受けた。笑顔一つない国際空港だった。
金日成の生家がある万景台に来た子共たち
金日成の生家がある万景台に来た子共たち
 翌朝、私は平壌駅前まで散歩に出かけた。街は職場に向かう人で溢れ、初めて目にする光景に我を忘れてシャッターを切り続けていた。その時、見知らぬ男がすっと歩み寄り、敬語体の朝鮮語ではあるが、厳しい口調で「まだお撮りになるのですか?」と制止した。ホテルを出るときから私のことが心配で、秘かに後をつけてきたようだった。
 平壌での日程は、午前中は経済問題の会議、午後は平壌市内見学だった。人民大学習堂も訪れたが、閲覧室では借り出した本をひたすらノートに写している姿が目に付いた。ゼロックスなど印刷手段は政府の統制下にあり、市民生活からは程遠いのである。「日本の大学で教えている者だが」と、一人の青年に話し掛けたところ、反射的に立ち上がって直立不動の姿勢をとった。そう言えば、韓国外大で教えていた頃、しばしば日本の学生には見られない礼儀正しさに接したものだった。
平壌駅前広場、朝鮮労働党創立55周年のポスター
平壌駅前広場、朝鮮罰動党創立55周年のポスター
 7月16日早朝、私たち一行は羅津・先峰自由経済貿易地帯に向かった。ヘリコプターで羅津に直行という当初の計画は、万一の天候不順を考慮し、チャーター便の飛行機に変更されていた。これが幸いして、めったに行けない羅津南方150キロの魚郎(オラン)空港に降り立つことになった。滑走路沿いに100機ほどのミグ戦闘機が機首を向け、滑走路周辺の空き地はジャガイモ畑として利用されていた。
 魚郎を出発した44人乗りのベンツは、川辺で洗濯をする女性を眺めながら、のどかな風景のなかを、東海岸沿いに北上した。見慣れぬバスに、農民たちは一様に作業の手を休めて視線を向けた。荷台に鈴なりの人を乗せたトラックが、車窓をかすめて通り過ぎた。話に聞いていた木炭車を追い越したりもした。
 未舗装の道路わきには、白いペンキが塗られた小石が20センチ間隔に並べられ、その横にはコスモスが植えられている。こんな風景が魚郎から羅津まで途切れることなく延々と続く。道路わきに咲くコスモスは韓国では秋の風物詩だが、ここでも変わりがないようで、妙な安堵感を覚えた。生活に窮しようとも、人は自然を愛でる心を忘れてはいない。
 
平壌の人民大学習堂閲覧室
平壌の人民大学習堂閲覧室
バスは12時過ぎに清津市内に入った。そこは40年ほど前、新潟港から日本海を渡って帰国した在日朝鮮人が上陸した港町である。東港前のホテルで昼食を取ってからさらに北上して行ったが、羅津まで50キロ地点の富居里で、1時間も道草を食うことになった。電力の出力不足のため列車が踏切で立ち往生していたのだ。それはモスクワからやって来た国際列車だった。列車のプレートを見ながら、南北首脳会談の後、ソウル空港で金大中が「途絶している京義線を繋げば、ヨーロッパまで列車で行けるようになる」と話した帰国報告の場面が、私の記憶から蘇った。現場に佇みながら、朝鮮民族が直面している歴史のダイナミズムを思った。
 とうもろこし畑に包まれた道路上で無為な時を過ごす私たちを、村の幼い子どもたちが遠巻きにしていた。「飴玉でも持って来ていたらなあ」という呟やきが、ふと私の耳をかすめた。その声の主は古稀を迎えた在日朝鮮人学者だった。子どもにあげる物を持ち合わせない不覚を詫びておられるかのようだった。
 羅津での2泊3日の日程は、港湾事務所での会談、羅津港・水産加工工場・自由市場の見学などだった。羅津の自由市場では5000平方メートルの敷地に連なる数百の販売台で衣料、食品、文房具などの日用雑貨を扱っていた。小さな卵が一つ10ウォン、ピーマン1キロ100ウォン、トマト1キロ70ウォンで販売されていたが、「サンタ」と表示された見栄えもしないサンダルが1足800ウォンだったのには、さすがに首をかしげた。羅津・先峰地区では独自の銀行券が発行され、配給制度もなく、労働者一人当たりの平均月収は3,000ウォンだと聞いたが、これでは容易に買えそうもない代物だからである。
 
北朝鮮の農村風景
北朝鮮の農村風景
自由市場の数百名の売り子に男性はいない。同行した人民委員会の方に尋ねると、「こんな仕事をしたら、オトコがオトコでなくなる!」と胸を張って言い放った。
 夜、人民委員会の方々と食事を共にした。私のテーブルには人民委員会の方が3人同席した。日本側では私しか朝鮮語が話せず、宴席には会話の途切れたぎこちない空気が淀んでいた。そのとき、唐突にも「私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス」というニホン語を人民委員会の方が口にした。解放時7歳だったというこの方が、黄ばんだ記憶からやっと手繰り寄せたことばのひとかけらに違いなかった。朝鮮語が通じないが故の沈黙を破るための糸口を探し出そうとしただけで、他意はない様子だった。
 1937年に制定されたこの「皇国臣民ノ誓ヒ」は、さらに「ヒトツ、私共ハ心ヲ合ワセテ天皇陛下二忠義ヲ尽シマス」と続き、「朝會・儀式及び其の他所有る機會に、之を反覆朗誦することに依り、児童生徒等の胸奥に次代國民の信條を刻印せんとするもの」(『施政三十年史』791頁、朝鮮総督府、1939年)だった。しかし、同席した日本人たちは、この「チカヒ」を知らなかった。歴史認識において、日朝間に甚だしい齟齬が生じるのも無理はない。
 羅津での日程を終え、魚郎に向かうため小雨のしょぼ降る中をバスに乗った。バスが羅津市内で一時停止したとき、裸足の少年が傘もささずに傍までやって来て立ち尽した。裾をたくし上げたズボンは、お尻にいくつも穴が開いている。思わずカメラを向けようとして、一瞬、後部座席を伺った。通訳を兼ねて平壌から同行していた青年が、少年と私を悲しそうな目で見ていた。この青年は在日朝鮮人の夫について北朝鮮に渡って来た日本人を母に持つと聞いていた。屈強な彼は、「たとえどんなことがあっても、身を挺してあなたを守ってあげる」と優しく言ってくれた人だった。自分は何のためにシャッターを切ろうとしているのか?と自問し、カメラを下ろした。
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北京大学と日中戦争
―その歴史的記念碑―

鳥井克之(外国語教育研究機構教授)

 1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発し、全国的な抗日戦争はこれより始まった。抗日民族解放戦争の砲火の中で、北京大学の歴史にも新しい1頁が展開された。
北京大学西正門
北京大学西正門
 古都北平(北京の旧名)は7月末に陥落された。8月25日、日本憲兵隊が北京大学に入り、第二院院長室に来て点検を行い、売国奴組織の地方維持会もまた北京大学等の大学責任者を召集して「談話」に来た;9月3日、日本軍は北京大学第二院と「灰楼(灰色のビル)」という新宿舎に進駐した;10月18日、地方維持会は北京大学を「保管」するという布告を第二院校門に掲げた。北京大学はこれより8年の長きに亘り日本軍とその手先の手に陥った。「紅楼(赤レンガの学舎、旧北京大学を象徴する建造物で現在は文化庁庁舎)」はひとたび侵略者の憲兵隊本部となるや、その地下室は愛国志士を拘禁・迫害する所として使用された。中国語学文学科の入口には「小隊附屬將校室」の門札が掛けられ、文学部部長室扉の標識は「南隊長室」となった。北京大学は日本侵略者の虐待と揉躙を蒙る所となった。
 北京大学はかつて抗日救国運動の重要拠点であった。盧溝橋事件発生後、大部分の教員学生はみな相前後して北平を離れ、抗日の前線や銃後に赴いた。彼等のある者は近くの北京西部山岳地帯のゲリラ地区に移り、中国共産党の指導により、敵背後の抗日ゲリラ戦に参加した;ある者は延安や他の地区に赴き、抗日救国運動に身を投じた。一部の教員と学生は転々と南下し、銃後の困難な条件の下で教育と学習を行った。勿論、その中にも遠く他郷に赴き、別途に進路を求めた者も若干存在した。陥落後の北平に留まった北京大学教職員の数は極めて少なく、彼等の多くもまた「餓死すとも節を失わざるを誓う」者であったが、極少数の人間だけが日本侵略者に協力し、恥ずべき売国奴に成り下がった。
 以上は≪北京大学校史(増訂版)≫(1988年・北京大学出版社)「第6章抗日戦争期と全国的内戦前夜の北京大学――長沙臨時大学、西南聯合大学期1937―1946年)」の冒頭部分である。当時の北京大学は旧市内中心の「故宮」北東角に隣接する所にあった。大学自体はその後国民党政府教育部(文部省に相当)命令により、清華大学と南開大学と共に南下して長沙臨時大学を開校したが、南京と武漢が陥落して長沙にも戦火が及んだので、さらに奥地の昆明に疎開し、そこに国立西南聯合大学を開校した。この間の教職員と学生の艱難辛苦は楠原俊代著≪日中戦争期における中国知識人研究――もうひとつの長征・国立西南聯合大学への道≫(1997年・研文出版)に詳しい。日本が無条件降伏した翌年の1946年に閉校式を行い、元の学舎に復帰した。
西南咲台大学紀念碑
西南聯台大学紀念碑
 北京大学は中華人民共和国成立後の大学制度改革により、清華大学や燕京大学を始めとする他の主要大学と教授陣が調整され、学舎も現在の場所、実はアメリカの支援により郊外に設立されていた燕京大学キャンパスに移り、その後多くの学舎が建設されて現在に至った。その西正門は中国的な建築であり、そこを入るとすぐに石橋があり、その右手百米の所に「國立西南聯合大學紀念碑」のレプリカがある。その碑文は世界的に著名な中国哲学者、北京大学教授、また本学W教授留学時の指導教授でもあられる故馮友蘭氏が自作の校歌歌詞も入れ、大学の略史とその感慨を千余字に凝縮した古文調の名文である。それは「中華民国三十四年(1945年)九月九日、我が国家は日本の降るを南京に受く。その上(かみ)二十六年七月七日芦溝橋の変をへだて、時をなすこと八年たり;さらにその上(かみ)二十年九月十八日瀋陽の変(満州事変)をへだて、時をなすこと十四年たり;さらにその上(かみ)清の甲午の役(日清戦争)をへだて、時をなすこと五十一年たり。凡そ五十年間を挙げて、日本の我が国家を鯨呑蚕食(鯨が小魚を飲み込み蚕が桑の葉を食べるように侵略する)せしが、ここに至りて図籍(地券と人民・金銭・穀物の所在を記録した公文書=国家権力の象徴)をことごとく備えて献還(返上)せり。」で始まっている。
「抗日戦争聯絡点」標識
「抗日戦争聯絡点」標識
 石橋を渡りそのまま直進すると「主楼(旧講堂と事務棟)」があり、左手に筆者が20年前に1年間通った「外文楼(現在は外国語学院日本語学部学舎)」があり、その間を通りぬけると林があり、その中に「抗日戦争聯絡地点」と書かれたプレイトが眼に入る。その説明文には「ここは元燕京大学第1号自然流下式下水槽であった。1938年秋から1941年前後まで、中国共産党地下組織はかつて秘密裏にここにおいて北平・天津地区と抗日根拠地との文書、情報、宣伝資材および軍需資材等を次から次へと伝送していた」とある。つまりアメリカの運営する燕京大学は盧溝橋事件後もそのまま存続したので連絡場所として活用されたが、太平洋戦争勃発と同時に日本軍に接収され利用不可能になったことを物語っている。
北京大学草命烈士紀念碑
北京大学革命烈士紀念碑
 さらに南東に進むと「俄文楼(旧ロシア語学部学舎)」があり、その手前に国民党や日本軍と闘って犠牲となった北京大学関係者を記念する「北京大學革命烈士紀念碑」があり、その裏面には犠牲者の名前が刻まれている。
 昨年9月前半、招かれて北京大学で講義をするため、学内にある招聘研究者宿舎「勺園5号楼」に滞在した。その時に入手した最新北京大学キャンパス・マップに上記紹介の事物が存在する地点がはっきりと記されていたので、実地にあらためて見学した次第である。それらは日本アジア侵略の記述に関する教科書問題の発生とそれに対応する中国のおける愛国主義運動と連動し、さらには一昨年の北京大学百周年記念行事の一環としてキャンパスを整備した結果、この様にクローズアップされる様になったようである。
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沖縄の今を見る

市川訓敏(法学部教授)

 人権問題研究室は、ここ数年来、沖縄における調査を実施してきている。95年9月の米兵による少女暴行事件をきっかけに、在日米軍基地の75%が集中する沖縄の現状をめぐって、今日まで激動の日々がつづいてきた。日米両政府と沖縄県とのやりとりのなかで、宜野湾市の普天間基地全面返還を柱とする米軍基地整理縮小案が策定されたが、その代替基地として、同じ沖縄県内の名護市辺野古沖合に海上ヘリポート基地を建設する案が浮上し、大きな争点になっている。
現在の普天間基地
現在の普天間基地

 沖縄は現代日本を写し出す鏡だといわれるように、日本のなかでもっとも注視しなければならない場所のひとつである。これまでの研究室の調査を引きついで、さらに沖縄の現実を知り、私たち自身のかかわり方を探ること、今回の沖縄訪問は、そうした想いから実現するはこびとなった。参加メンバーは、田中欣和、源淳子、小林丈広、市川訓敏の四名である。
 台風14号が去った直後の9月14日、私たちは那覇空港から一路、本島北部にある名護市辺野古をめざした。辺野古は、その沖合に、きれいな海にしかすまない国指定天然記念物のジュゴンが生息することで知られている。その美しいサンゴ礁の海岸を前にした団結小屋で、ヘリポート建設阻止協議会、命を守る会代表の金城祐治氏と、同相談役でジュゴンの会代表の嘉陽宗義氏にお会いした。
 金城氏は、代替基地は基地の固定化をはかるものであり、他では無理でも沖縄には文句を言わせないという強圧的な姿勢は、差別そのものではないでしょうかと話された。金城氏は大阪で生まれ育ち、そこでどのような差別があったか、そして沖縄に戻っても人権を無視されるというのは、日本の民主主義に何かひずみがあるのではないかと語られた。
 嘉陽氏は、先祖から守ってきた豊かで美しい海を次の世代に伝え、子や孫たちの命を守ることが、自分たちの闘っている意味であり、自分たちは「模合い」(沖縄に残る一種の相互扶助組織――筆者注)で結ばれているので、こうして運動をつづけていけるのですと話された。
 私たちは時間の経つのも忘れて、先の沖縄戦のことや、さまざまなことをお聞きしたが、日本の近代化の過程で、先の大戦のみならず、つねに沖縄が犠牲となってきたこと、沖縄の苦しみ(島ちゃび)の上に、私たちは漫然と平和を享受していることを思い知らされた。
 その日の夜に、嘉手納基地の門前町として知られるコザ(現、沖縄市)で、有銘政夫氏にお会いすることができた。有銘氏は、沖縄軍用地違憲訴訟支援県民共闘会議の議長をつとめられ、反戦反基地運動のリーダーとして知られている方で、これまで人権問題研究室でもお世話になり、田中研究員とは旧知の間柄である。
 有銘氏は、米軍の基地建設が「銃剣とブルドーザー」によって住民を排除しつつ、いかに強圧的におこなわれたか、またそれに対する「島ぐるみ闘争」がどのように押し進められたかを話していただいた。さらには今日の米軍が海兵隊を主力とするものであることを十分知っていただきたいとも話された。海兵隊は、戦時即応部隊であり、敵前上陸部隊である。その存在がいかに私たちの平和を脅かすものであるかを氏のお話からひしひしと感じた。
 翌日私たちは、沖縄戦最大の激戦地になった南部戦跡に向かった。最初にめざしたのは、石原昌家氏がゼミ生とともに丹念に調査をされた轟の壕である(石原昌家『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕――国内が戦場になったとき』集英社新書、2000年)。轟の壕は、沖縄本島南部にいくつもある自然洞窟のひとつで、島田県知事(当時)以下県首脳が米軍上陸後に避難したことから、最後の沖縄県庁とも呼ばれている。ここで何百人もの民間人と日本兵が雑居し、食料も枯渇して、餓死者が続出した。日本兵が住民をスパイ視して、子どもを殺害する事態もうまれ、泣き叫ぶ子どもを黙らせようと、子どもの親を威嚇する場面も幾度となくあったという。私たちは何とか壕を捜しあて、日の光の届かない壕の入り口にたたずんで、ここで亡くなった人たちの無念を想った。
 そのあとは、糸満市にある沖縄県立平和祈念資料館を訪れた。資料館は昨年、ひそかに展示内容を変更しようとする動きがあって、島じゅうが沸騰する騒ぎになったところである。政府や観光で訪れる日本人を刺激しないようにとの配慮から、壕内で日本兵が住民を脅している場面などを変更しようとしたのである。
 資料館は、沖縄戦を中心とした展示室、(戦争体験の)証言の部屋、図書室などから構成されていて、その全体を学ぼうとすれば、何日もかかる規模のものであった。問題の壕(ガマ)の場面は当初の展示に戻され、その他の展示なども強烈な緊迫感をもったもので、いかに沖縄戦が悲惨であったかが伝わってくる。とても本土の博物館などには見られない訴える力があった。
 隣接する「平和の礎(いしじ)」(全戦没者刻銘記念碑)は、敵味方に関係なく沖縄戦で亡くなった人々の名前を刻んだ石碑でうめられ、現在23万人以上の名前が記されている。先のサミットでは、クリントン・アメリカ大統領がここで演説したことは記憶にあたらしい。
平和の礎(いしじ)
平和の礎(いしじ)
 最終日に、資料館構想の中心メンバーのお一人であった石原昌家氏にお会いした。氏は、今回の資料館の歴史改ざん問題は、沖縄県民の歴史認識が高まっているので阻止されたが、軍事基地を沖縄に永続化させようとねらっている人たちは、つねに歴史の改ざんを考えていると見なければならないし、日本を戦争のできる国にするため、歴史認識の転換をはかろうとする歴史修正主義が出てきていることに注目してほしいと述べられた。
 その他さまざまなお話を聞かせていただいたが、95年の少女暴行事件以前に同種の事件は日常茶飯的に起きていて、9月のあの事件があれほど大きく取り上げられ、県民の憤りをまねいたのは何故か、いまだにわからないと話され、戦後50年という節目の年で、さまざまな取り組みがなされ、県民の基地との共存を拒否したいという意識が高まっていたこと、北京女性会議で女性に対する暴力の問題がとりあげられ、参加した人たちが声をあげたことなど、いろいろなことが考えられると述べられたことは、強く印象に残った。最後に、持参したご著書『沖縄の旅』にサインをいただき、「平和のためのひと滴として」と書いていただいた。
 10月17日付の『琉球新報』は、辺野古沖合の代替基地建設がジュゴンの生息を脅かすとして、弁護士グループが米国防総省を相手に訴訟を起こす決定をしたと報じた。
 
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調査報告

障害者問題研究班
北海道帯広市を訪問して

谷 直介(委嘱研究員)

 平成12年7月21日、われわれ障害者問題研究班はJR帯広駅に降り立った。事前に連絡して案内をお願いしていた小栗静雄氏(帯広協会病院、PSW)が駅構内にある観光案内所と同居している「福祉のひろば」前で待っていてくれた。挨拶もそこそこに取り
「福祉のひろば」で(左から2人目が小栗氏)
「福祉のひろば」で(左から2人目が小栗氏)

   敢えず昼食をということで自ら運転をして連れて行っていただいたところが「キッチンハウスあしたば」で、おいしいオムライスとコーヒーをごちそうになった。精神障害者共同作業所の一つで、もともとビジネスホテルだったところを借り上げ、共同作業所、グループホーム、共同住居として使用しているとのことであった。
精神障害者共同作業所の「キッチンハウスあしたば」<br>現在の普天間基地
精神障害者共同作業所の「キッチンハウスあしたば」
 昼食後、共同住居「悠夢ハイツ」を案内され部屋を見せていただいたり、マンションの一階にある、元は喫茶店の共同作業所
 「クッキーハウスぶどうの木」を訪れてお土産にクッキーを買ったりした。奥の調理場で作られたクッキーを当事者(利用者、通所者)が店で袋詰めをしているところであり、クッキーの種類は多かった。そして、「ぶどうの木」の産みの親である「帯広ケア・センター」ヘ向かった。センターでは門屋充郎所長(PSW)から施設の概要などの説明を受けた後、施設を案内していただいた。これまで視察した施設と異なって農業を取り入れた室外での作業が中心であり、“農場”の広さと設備(トラクターやビニールハウスなど)に驚かされた。
共同作業所「クッキーハウスぶどうの木」にて
共同作業所「クッキーハウスぶどうの木」にて
 帯広・十勝地域はこれまで30年近く地域精神保健福祉活動に力を注ぎ、日本では有数の精神障害者のための医療・保健・生活福祉にかんする社会資源の豊富さを誇っている地域となってきているが、その中心が平成3年に開設された精神保健福祉法による精神障害者通所授産施設「帯広ケア・センター」で、「帯広生活支援センター」を併設(場所は帯広駅前にある)している。
 現在のグループホーム、共同住居の機能を持つまでは、支援下宿・アパートとして スタートさせていき、それもオープンな社会資源として当事者(精神障害者)が自由に選択できるようにしていったところがその後の発展に繋がって行ったと考えられる。たとえばある精神科医療機関がグループホームを作ると、多くの場合利用者はその医療機関に通院しているか、そこから退院する患者さんというのが一般的であるため、だれもが利用できるとはいいながら地域の中での広がりを持ちにくい要因の一つとなっている。ちなみにこれまでの経験を踏まえて小栗氏は地域活動の3原則を次のように述べています。
 *人であれ物であれ社会資源は市民の共有財産である、あるいは市民の共有財産でなければならない
 *抱え込まず、選ばず、市民としてという当事者の目線
「帯広ケアセンター」を訪れて(右から2人目が門屋氏)
「帯広ケアセンター」を訪れて(右から2人目が門屋氏)
 *うちの病院・うちの施設・うちの患者という意識を乗り越える
調査参加者:藤井 稔、葉賀 弘、荒木兵一郎、谷 直介

謝辞:お忙しい中調査にご協力いただいた施設の皆さんにお礼申し上げます。
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編集記後

吉田徳夫(法学部教授)

 北朝鮮、中国、沖縄関係のレポート三本と、障害者問題研究班の出張記が寄せられた。前者の三本のレポートは、何れも日本の戦後処理、或いは戦争責任問題を解決して行かねばならない今後の課題を示唆して興味深い問題提起となっている。昨年は、外国人選挙権問題と併せて、北朝鮮との国交回復問題が新聞紙上でも取り上げられ、特に戦争責任問題を回避しては北朝鮮との国交回復の実現性は乏しい。東西冷戦構造の崩壊の問題が漸く東アジアでも現実の問題となってきた訳だが、新しい東アジア秩序の形成にあたっても過去への反省を抜きにしては新しい前進はない。我々の課題に対して今回のレポートは様々な示唆を与えてくれると思う。
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