■人権問題研究室室報第24号
 (2000年1月発行)
遠く普天間基地の滑走路をのぞむ
遠く普天間基地の滑走路をのぞむ

沖縄調査旅行報告

田中欣和(文学部教授)

普天間基地の代替地 辺野古(名護市)
普天間基地の代替地
辺野古(名護市)
 歴史的経過のあれこれを省略して、現在のことだけを考えても、それも基地問題だけにしぼって考えても、全国の面積の0.6%に過ぎない沖縄県に、全国の米軍基地の75%と在日米兵の60%が集中し、日米安保体制の負担を集約的にしわ寄せしている現状は、「政治的差別」ともいうべきものである。さらに歴史的に考えればなおのこと、日本の近・現代の「人権」状況に関して重大な問題が示される。そこで、人権問題研究室としてもこの3年は継続して沖縄へのききとりを中心とした調査旅行や合宿研究会での学習を行っている。
 本年は9月27日〜30日、吉田永宏室長をはじめ小川悟、梁永厚、田中欣和の計4名の室員が沖縄を訪問し、多くの方々のご厚意によってきき取りを行うことができた。
 まず、27日午後は、長く本島中部(中頭地方)の教組委員長や地区労議長をつとめ、今も反戦反基地運動のリーダーである有銘政夫氏にお会いした。(復帰直前の田中の最初の訪沖以来、つねにお世話になってきた方である。有銘氏のお話を伺ったことのある教育学科卒業生は合計百数十名に及ぶであろう。)氏は、「沖縄の米軍基地の実態」を基地の最も集中する中部(普天間基地・嘉手納基地を含む)の地図を前にして、経過・現状・課題を具体的に、かつ明快に説明された。その内容をここで紹介することはできないが、とくに本土で忘れられがちの例を示すと、沖縄の基地はまず占領当時、県民が難民キャンプに収容されている間に「必要なだけ、より便利な所」を金網で囲い込むことではじまり、軍政が継続していた53〜56年ごろ「ブルドーザーを先頭に完全武装した米兵が後に続き、土地取り上げに抗議中座り込みをしている住民を一人ずつ排除し、屋根にロープをかけて引き倒し、あるいは焼き払い、見る見るうちにブルドーザーで敷きならしてしまうという強引さ」で拡張され、60年安保当時は海兵隊が本土で減少した分のかなりの部分が統合され、沖縄では逆に米軍基地が2倍になり、72年の復帰後も本土の海兵隊が移設されたという経過である。安保・自衛隊を前提にするとしても、沖縄の米軍の6割を占める海兵隊は本質的に攻撃用の部隊であり、「専守防衛」のタテマエとは逆のものであることすら、本土では余り意識されていない。
 27日の夜は、ちょうど「結成総会」を開いた「普天間基地・那覇軍港の県内移設に反対する県民会議」を傍聴した。各地の状況が報告されるうちでも、普天間基地移設の最有力候補地といわれる名護市辺野古地区の区会(町内会に当る)が反対決議をあげたことが報告され、拍手をあびていた。
 28日はその名護市を訪れ、地元で反対運動をしている数名の方のお話をきいた。金城祐治氏、新城春樹氏その他の方々である。(金城氏はかつて大阪に在住されていたとのことで関西大学の私たちはとくに温かく迎えていただいた。)本土から見ると基地移設をめぐって沖縄県民に分裂と対立があるように思えるが、それが本質的な対立ではなく、基地をなくすことは圧倒的な人々が願っているが、きびしい不況のなかで「15年という期限をつけて」という稲嶺現知事の妥協策が一定の人々の支持を受けたこと、反対運動側から見るとそれは「現実的」とは思えないこと、運動の構造はかつてのような労組中心ではなく、市民団体中心になっていること、県内移設促進の動きにはたとえば建設関係者の利害がからんでいること、などが私にはとくに印象的であった。ききとりのあと辺野古現地の団結小屋を訪れ、「あのあたりですよ」と指さされて「海上ヘリポート」の候補地を知った。今は青く、静かな海である。「ハンセン基地を見るのならここ」と案内されたのはあるマンションの屋上。広大な基地に文字通り隣接して住む住民の視点に物理的にも立つことができた。  28日夜は、沖縄国際大学の石原昌家教授にお会いした。沖縄国際大学は普天間基地に金網一つへだてた位置にある。「南島文化研究所」があり、今後わが研究室と研究上の交流をお願いするべきところと考えた。石原氏ご自身はフィールドワークを多く積み重ねて来られた社会学者である。沖縄出身者が多く住む大阪市大正区でのフィールドワークもなさったそうである。本土の大学が沖縄について取り組むべき研究・教育上の課題を問うとやはりまず「基地問題」を挙げられた。
 29日は、沖縄の歴史と文化をまず基礎的に学ぶ場として県立博物館、首里城その他を訪れた。首里へ行くといつも「アジア史のなかの沖縄」を実感する。梁先生は韓国・中国との異同に興味深そうであった。(吉田室長は学位論文審査のためその午後帰阪)
 30日10時からは県会を傍聴するつもりであった。平和祈念資料館の展示内容について、「反日的」とされるもの(日本軍による住民殺害など)の再検討を県がすすめているメモを琉球新報がスクープしたため、当日は「荒れる」との観測があったからである。ところが正午近くなっても開会されない。議事運営をめぐる舞台裏の話しあいが長引いていたのだと思われる。
 琉球新報の高嶺朝一氏とは昼食をともにしながらお話を伺った。琉球新報と沖縄タイムスが沖縄の反基地世論をリードしているという見方があるがというと「むしろ逆です」と「世論」が新聞をリードしているということであった。
 このようにきわめて内容の充実した4日間であった。わが研究室の取り組みはまだ準備段階というに近いが、来年からはより若い室員とともに次の段階に入りたいものである。
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広島県福山地域への出張報告

吉田徳夫(法学部教授)

福山地域  今年の夏も、広島県大朝町の解放史研究会の皆さんに案内されて広島県の部落史を調査させていただいた。例年の通りであれば、山間部に位置する大朝町周辺から島根県地域にかけて調査を行うわけであるが、今回は瀬戸内地方に足がかりを得たいという大朝町の人達の考えもあり、福山地域を調査させていただいた次第である。
 以上の福山地域の調査とはいえ、まだ始めたばかりであり、これからの調査に全てが懸かっている。新幹線の福山駅を降りると、駅は福山城の一郭にあり、その足で早速、福山城へ出かけ、同城内にある鏡櫓の史料館を訪れた。近世の福山地域に関する庄屋文書等が所蔵されており、部落史の調査は将来はここから始めることになる。部落に関わるまとまった史料群は、これと云って無いのが実情である。その後に福山市の人権資料館を訪れ、ここで大朝町の人達と再会を果たし、また福山に在住の研究者ともお会いする機会が与えられた。
 地元に居られる近代史の研究者で割石忠典氏や中世史の研究者で堤勝義氏に案内を受けた。堤氏は時宗と部落との関連を追跡されている。同氏の案内で、福山市内の部落である三吉町・本庄町を案内していただいた。本庄では、部落の起源に関わる近世史料を拝見させていただいた。三吉町では部落寺院を案内していただいたが、外観だけを拝見しただけである。同寺院には現在は文書等は残っていないと云うことである。
 その後、鞆地域を案内していただいた。鞆は朝鮮通信使を接待した待潮楼等があり、また鞆で解放運動に従事されている部落の人にお会いすることが出来た。現在の鞆の部落の人々の檀那寺は時宗本願寺であるという。真実は不詳であるが、境内には蓮如上人の母の墓というものが残っており、同寺の縁起では蓮如上人誕生寺とされている。残念ながら、突然の訪問になってしまい、同寺の文書を拝見する機会を得なかった。
 時宗と部落問題との関わりについては今後の課題とせざるを得ないが、その鞆の本願寺の縁起には興味深いものがある。同寺の開基は建治二年(一二七六年)という伝承であり、『一遍上人絵伝』と照合してもその伝承には妥当性がある。即ち、一遍自身は熊野で賦算を配布する示唆を得て、その足で四国へ帰還しており、その途中で鞆に立ち寄った可能性は充分にある。また時宗と熊野とは一遍以来の結びつきだろうが、その事は近年刊行された『熊野那智大社文書』にも伺うことが出来る。藤沢遊行寺蔵『往古過去帳』遊行十一代自空条には応永二年十一月四日鞆東一房という記載があり、在家僧侶かと思われ、鞆に本願寺の母胎となる宗教活動が展開していたことは事実だろう。
 『西備名区』によれば、「(本願寺)当寺草創は文安年中、西町大仏屋先祖某、夢想によって建立すと云」とあり、鞆の西町に居住した「大仏屋先祖某」が文安年中に本願寺を開基したと明記されている。『備陽六郡志』によれば、鞆の浦には時宗寺院が多く存在したと記されており、本願寺の別称が沖御堂であり、尼寺であったという記事も興味深い。
 鎌倉時代の文芸作品である『問はず語り』には、鞆を訪れた作者の二條が遊女の館に宿泊し、「遊女の世をのがれて、いほりならべてすまひする所なり」とか、「朝な朝な花を摘みにこの山を登る業して三世の仏にたむけ」等と記す遊女の信仰心を描いている。港町での遊女の伝承はその女性達が熊野比丘尼であったことを示唆し、遊女の信仰のあり方は『法然上人行状絵詞』にも示されている。即ち、法然が播磨国の室津に至ったとき、友君という遊女の帰依を受けたと記載があり、鞆でも同じく時宗に帰依した遊女の集団があったと思われる。
 更に本願寺の別称が沖御堂であったことは航海安全の燈台の役割を本願寺が果たしていた可能性を示す。また漁師三山次郎左衛門が本願寺の境内神社である熊野宮を造営したという記録がありますが、この漁師は単純に漁師と考えるべきではなく、熊野水軍と考えておいたほうがよい。末寺の永海寺が鍛冶阿弥陀堂と称し、また現在の本願寺境内地に青江鍛冶刀匠の井戸が、江戸初期に本願寺が同地に移転した時のままに現在まで残ったと云われている。鍛冶は水軍と結びつきの強い職種であることも注意される。
 慶長年間、鞆の町割りが行われ、本願寺の縁起では慶長十五年と特定されている。その町割りは、鞆が中世都市から近世都市への移行した時期を示すと考えられる。同時に本願寺が移転したという伝承は注目すべき事だろうと思う。『備陽六郡志』によれば「遙の西」に移転させられ、同地が寺町を形成していなかったとしたら、特に移転の意味は大きいと思われる。部落門徒と鞆本願寺との結びつきが何時まで遡及するのか今後の課題だが、慶長年間に遡及するのであれば、寺の移転と部落の移転とは密接な関係があると考えるべきだろう。部落の起源もここに認めることができるかもしれない。『水野記』(広島県史、近世史料)によれば、鞆のかなりの寺院が福嶋正則により焼き討ちにあったことは確かであり、こうした寺院に対する迫害は、賎民政策と結びついていると推定される。
 瀬戸内には非常に多くの部落が存在する。こうした部落の成立の原因となったのは、近世初頭の水軍に対する圧迫と宗教弾圧とがあったと想定されるが、私共の研究の食指が動かされた事は確かである。
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熊本県人吉市の大畑(おこば)駅訪問記
ループとスイッチバックのある山峡にて
−1908年建立の石碑に朝鮮人の名前をみる

金 英達(委嘱研究員)

 JRの肥薩線は、南九州西海岸の鹿児島線の八代から分岐して、途中、内陸の人吉を経由して鹿児島に通じる鉄道である。1909年(明治42年)に開通した。今でこそ山間のローカル線であるが、1927年に沿岸線が敷設されるまでは、この内陸線が鹿児島本線であった。その建設は鉄道庁が施工して、間組や鹿島組などが工事を請け負った。この鉄路建設には、中国人と朝鮮人の労働者が従事し、日本における最初期の外国人労働者の歴史が秘められている。
 昨夏の8月2日、沖縄から朝鮮半島へと北上する台風7号の余波で断続的に強い雨が降る中を、JR熊本駅から8時21分発「えびの1号」の急行列車に乗った。八代から線路は球磨川に沿って遡り、人吉を過ぎると国見山脈の険しい山間部に突入する。横平トンネルを抜けて、10時11分に大畑駅に到着した。「大畑」と書いて“おこば”と読む。山間の小さな無人駅である。まだ県境を越えておらず、行政区域は熊本県人吉市である。
 列車は、ひとしきり停車したのち、もと来た反対方向に発車した。肥薩線は「矢岳(やたけ)越え」と呼ばれる山岳地帯の難所を越えるため、大畑駅で進行方向を転換し、急傾斜を大きくループして南へ向かう。そして矢岳トンネルを抜け、宮崎県えびの市を通って鹿児島県に入るのである。そもそもこの駅は、急勾配を喘ぎながら上ってきた機関車が一息つくための休憩所なのである。かつての蒸気機関車が全盛の頃は、この駅も活況を呈していたという。
 この珍しいスイッチバックやループがある風景を愛でて、今も多くの鉄道ファンが訪れている。無人の駅舎内に、マニアの寄せ書きや名刺などがいっぱい貼られているのは異様な光景である。しかし、人里は遠く離れていて、付近には丘の上に神社があるだけで、何もない山峡の地だ。駅に降りると、まったく人っ気がなく、雨の中、行止まりの道を熊本県の災害パトロール車が廻って来ただけであった。
 ホームから人吉側を見渡すと、線路右手の木立の蔭に碑らしいものが見える。これに違いないと、線路を横切って小道を登ると、そこはちょっとした公園のようになっていた。機関車の車輪が野外展示されており、休憩用のベンチがいくつかあって、その内側に玉垣に囲まれた古色蒼然たる石碑が建っている。高さは3メートルほどであろうか。碑の正面には「鉄道工事中殉難病没者追悼紀念碑 間組」と刻まれており、右側面に「明治四十一年十月建之」とある。矢岳トンネルを含むこのあたりの工区を請け負った間組が建てた工事犠牲者の慰霊碑である。周囲は夏草が生い茂り、碑には茨がからまって、今では大畑駅を訪れる鉄道ファンも見向きもしないようだ。
 横殴りの雨が激しく、傘を持ってノートに碑文を書き取るのは難しい。碑の四面を写真に撮ってから、碑文を観察した。裏面には「肥薩鉄道為日露戦役…」と日露戦争で工事が中断したことから始まる漢文の文章が書かれていたが、書き取ることができなかった。右側面に1名、左側面に13名、合計14人の殉難病没者が死亡年月日、出身地、姓名、年齢の順で縦書きに刻まれている。左側面は太陽の当たらない北面なので苔むして碑文が読みづらい。右から10人目に「明治四十一年三月十六日死 韓国京畿道南陽郡新市街 崔吉南 行年二十三歳」とある。この碑文こそが、まぎれもなく「韓国併合」(1910年=明治43年)以前に、すでに朝鮮人労働者が日本の鉄道工事に従事していたことを物語っている。
 『日本鉄道請負業史 明治篇』(鉄道建設業協会、1967年刊)や当時の『九州日日新聞』の報道記事によると、肥薩鉄道工事には当初、数百名の中国人工夫が働いていたが、1899年の勅令第352号により中国人労働者の日本での就労が禁止されたことに伴い、代わって朝鮮人労働者が移入され、各工区において数百名規模で大本組、鹿島組、間組など請負業者に雇傭されていたことが判明する。
 『九州日日新聞』の1908年1月30日の「韓人の同盟罷工」の記事によれば、「県下球磨郡人吉に於て、肥薩鉄道工事の韓国人人夫は藍田村のみにて三百名に上り、このうち五、六名は夫婦者にて、女は炊事の方に使役され居れるが…」とあって、夫に帯同して日本に出稼ぎに来ていた韓国人女性もいたことが分かる。
 碑文中の「崔吉南」は、男なのか女なのか判然としないが、1908年3月29日の『九州日日新聞』に、藍田村七地の工事現場で起きた事故により「韓国慶尚道安東生れの崔吉南」が死亡したとの報道がなされている。死亡した崔吉南は、建設現場の工事に従事していたのであれば、おそらく男性なのであろう。出身地が碑文と新聞記事では異なっているが、生まれが慶尚北道の安東で、住所が京畿道の南陽郡新市街だということであろうか。
石碑  かつて、在日朝鮮人史の起源の見直しに関連して、1899年の勅令第352号「条約若しくは慣行に依り居住の自由を有せざる外国人の居住及び営業等に関する件」の解釈や運用をめぐって、大いに議論がなされたことがある。実は、この肥薩線鉄道工事における中国人と朝鮮人の就労の史実の掘り起こしが、この議論に決着をつける大きな要因となったのである。このたび、その歴史の象徴である慰霊碑を直接見て、ひとしお感慨深いものがあった。
 願わくば、大畑駅を訪れる鉄道ファンにも、明治期の鉄道建設に寄与した中国人・朝鮮人労働者のことを知ってもらいたい。駅に案内を掲げ、石碑の前には解説板を設けたらどうであろうか。大畑駅11時46分発の人吉行きの一輌だけの普通電車が、石碑の裏手のループ線を大回りして、やがて駅に入って来た。肥薩線の「いさぶろう号」らしい。運転手が沿線のガイドをしてくれる観光列車である。雨が止んで雲間から陽光がさしこんできた。電車が停車すると、カメラを手にした乗客がどっとホームに降りて、盛んに記念撮影をしていたが、石碑の方向に目を向ける人は誰もいなかった。
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書 評

親鸞と人間解放の思想 鈴木祥蔵・著
『親鸞と人間解放の思想』を読んで
(明石書店、1999年9月刊)

源 淳子(委嘱研究員)

 鎌倉新仏教といわれる仏教運動がかつて日本にあった。法然、親鸞、日蓮、道元などが、その運動の担い手であった。本書の第一章「解放思想の源流としての親鸞」は、人間解放の原理を、その親鸞の“弟子”であった唯円によって編集された『歎異抄』をテキストとして思索し、また、第二章「人間が『人間』になるとき」は、約四十年間にわたり教育学および教育思想・哲学を講義してきた著者の集大成的な教育学に関するエッセーである。
 第一章では、親鸞を、「罪悪深重、煩悩熾盛」の人間であり、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、地獄に生きるものとしてみている。著者はそうした親鸞に青年時代から共感してきた。それはまた天皇制の呪縛から逃れようとした日本の近代知識人が、好んで読んできた親鸞と共通するところである。しかし、だからといって本書に他と違った発見がないわけではない。そのキーワードは、「世間」と「門徒もの知らず」である。「世間」とは、政治権力や経済、イデオロギーやマスメディアなどに支配されている市民社会である。「門徒もの知らず」は、その市民社会を対象化して生きようとするものである。著者は、世間を対象化した門徒もの知らずに市民社会の呪縛から解放されようとする人間の姿をみる。それを著者は、「文化的人権」として提起する。
 第二章は、「人間の本性と教育」をキーワードにして展開している。ここでの人間のとらえ方に著者はマルクスを読んでいる。それは人間の「その現実性においてはそれは社会的諸関係の総和である」というあり方にある。著者は、その「社会的諸関係の総和」としての日本人を「天皇制国家ができてからは臣民とされ、天皇制下の学校教育によって『忠孝一本』の道徳教育により徹底的に忠君愛国者とされ、市民となることをもうしろめたいものと感ずるようにつくられてしまった」と検証することによって「日本人になることは〈人間〉になることの妨げだったのである」という思想を形成し、それからの解放の教育とは、「だから一度『つくられてしまった』おのれを対象化し、『みずからをつくりかえるもの』になることであるが、それは家を否定し、国家を否定し、『ふるさと』を否定することなのである。ここで否定するという意味は、否定を媒介として、家や国家のもつ特殊性を否定し、普遍的なものにそれを変革する運動に参加することなのである」という思想を見出す。しかし、そこで残る疑問は、著者が自明とみているその“普遍的なもの”は、確かに存在するのかという問いかけである。それはまたナチスから逃れアメリカに渡ったアドルノが「アウシュヴィッツのあとではもはや詩は書けない」ということにおいて問うた存在の意味でもある。
 仏教の古典である『スッタニパータ』には、「諸々の苦難に堪えて恐れることなく犀の角のようにただ独り歩め」とあるが、本書の読後に感じたことは、この誠実な著書がいまだ読まなかった「親鸞と人間解放の思想」を独り読んでみたいという誘惑であった
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書 評

人権保育カリキュラム 鈴木祥蔵・堀 正嗣 編著
『人権保育カリキュラム』
(明石書店、1999年7月刊)

姜 博久(委嘱研究員)

 本書は、編著者がそれぞれ所長・副所長を務める(社)子ども情報研究センター(元乳幼児発達研究所)が「国連人権教育の十年」の取り組みの一貫として、1996〜98年にわたって発刊した「人権保育カリキュラムへの提言」(その1〜3)の3冊の内容を合わせて再構成したものである。「まえがき」にも書かれているように、編著者を含めた11名の執筆者がそれぞれ同一の見解をもって人権保育に関してアプローチしているわけではない。しかし、各章、各節にわたって流れている基調は、《子どもを述語の位置から主語の位置へと移す》ことであり、その視点に立って、新たな保育の可能性を探ろうとしているところにある。《子どもを育てる》から《子どもが育つ》立場へ、大人による《他動詞の目的語》であった子どもたちを、《自動詞の主語》として、その内在的な生きる力が発揮できるような保育に取り組むこと。子どもを権利の主体として、大人による《保護の対象》から《社会を構成するパートナー》として位置づけ直すこと。各執筆者が保育に求める基本的理念に違いはない。
 しかし、保育が保育従事者だけの問題ではなく、親はもちろん、地域社会に開かれた中でこそ進められるべきだという本書の最初の提起は重要である。それは単に保育園や幼稚園が地域社会の中で果たす役割の問題ではなく、地域社会との関わりの中でこそ現状の「教え込み」という保育のあり方を変えることができるのであり、その中でこそ人権に立脚した保育が展開できるとするその提起の基底には、「差別の現実から学ぶ」という被差別部落の中から生まれてきた「同和保育」の理念と実践がある。「人権保育」とは、「同和保育」の中で培われた「反差別」の姿勢を子どもたちの「育ち」にいかに生かしていくのかの実践にほかならない。
 また本書には「自然」「からだ」「音楽」「ことば」「あそび」といった保育に欠かせない取り組みについても具体的な提言がなされている。しかし、それらから得るべきことは俗に言う「How to」ではない。その提言を受けとめ、子どもたちとの関わりの中で、子どもに寄り添う側のそれぞれが独自の取り組みを実践する際のヒントでしかないことを肝に銘じるべきだろう。実践は《保育現場の固有性》の中で新たに生み出されてこそ、実践と呼べるのだと思う。
 最後に、筆者は、本書の「子ども」を「障害をもつ人たち」と置き換えて読んでみても面白いのではないかと感じずにはいられなかった。誰もが「子ども」という時期を経験するという意味で、子どもの問題が一つの普遍性をもつように、「障害をもつ人」になる可能性が誰にでもあるという意味で、障害者問題も一つの普遍性をもっているのではないか。人権を誰にも該当する普遍的な問題として捉えるためにも本書は一読に値する。
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