複合的な視野からアジアの文化を捉える
吾妻 重二 教授

東アジアの文化交渉を研究

複合的な視野からアジアの文化を捉える

文化の形成と展開、受容と変容を追う

文学部

吾妻 重二 教授

Juji Azuma

古来、中国や朝鮮などの外国から文物や思想、文化を取り入れてきた日本。外国文化を抜きにして日本の文化を考えることはできず、他国との文化的接触を視野に入れることで、さらに日本文化を理解できる。これは日本に限らず、どの国、どの文化においてもあてはまる事象といえる。吾妻重二教授は、国境を越えた視点から、東アジアにおける儒教思想や儀礼の文化交渉を研究する。

越境する文化の「受容」と「変容」を追う

中国思想史や朱子学に興味を持たれたきっかけとは?

学生時代、授業で『孟子集注(しっちゅう)』を読んだのがきっかけです。孟子に朱熹(しゅき)が注釈を付けた書物ですが、学生当時の私の漢文力でも読むことができる明晰な文章に感銘を受け、内容にも興味を持ちました。
 朱子学は古臭いとか封建的だとか言われ、誤解されることが多いように思います。朱子学には「聖人学んで至るべし」という原則があります。これは「人は誰でも学問によって聖人になることができる」という平等主義的な発想。生まれや家柄を問わず、人の持つ可能性を引き出そうとするものです。研究を始めたのは、朱子学への誤解を解き、再評価してほしいという思いを持ったからでもあります。

現在は文化交渉学の視点から、儒教や東アジアの思想へと研究の領域を広げられています。ご専門の文化交渉学とは?

一言でいうと「文化は交渉することで形づくられる」という視点を基本とします。どのような文化でも、他との交流や接触を持たず、ガラパゴス諸島のように孤立して進化してきたという例はなく、必ず他の地域の影響を受けて発展しています。たとえば中国は仏教の影響を強く受けていますが、仏教の教えはインドから来ている。また、日本の伝統文化を代表する茶道は中国に起源がある。各国の文化は固定されておらず、他の地域の文化を受け入れ、自国の文化や慣習に合わせて変化させているのです。「受容」と「変容」は文化交渉学の重要なキーワードですね。

儀礼をはじめ、さまざな文化交渉を世界へ発信

最近はどのような研究をされているのですか?

今 、研究していることの一つに儒教の「儀礼」があります。儒教では儀礼が発達しており、冠婚葬祭の儀式はその中で特に重要とされます。前述の朱熹が著わした『家礼(かれい)』─これは文字通り家の中で執り行うべき冠婚葬祭の儀式マニュアルで、朱子学と共に東アジアに広く受容されました。しかし、ほとんど研究されていなかったため、私の方で資料を整理し、『家礼文献集成 日本篇』全六冊(関西大学出版部、2010~2016年)にまとめました。また、2009年には韓国の国学振興院の朴元(パクウォンジェ)在先生と国際シンポジウムを開催し、論文集『朱子家礼と東アジアの文化交渉』(汲古書院、2012年)を出版。15年には「文化交渉学研究拠点(ICIS)」で国際シンポジウム「文化交渉学のパースペクティブ」を開催し、その論文集も出版することができました。

今後の抱負をお聞かせください。

儀礼に関しては、ベトナムの『家礼』を追いたいと思っています。また、近代日本の漢学にも注目しています。日本の学問は明治維新により、それまでの古い中国の漢学から新しい西洋のものへ瞬時に切り替わったわけではない。日本が近代化を遂げて行く中で、漢学や漢詩は大きな役割を果たしました。また、日本における漢詩の教養は明治時代に最も普及し、新聞にも漢詩欄が設けられる程でしたが、その研究はほとんどされていません。まずは漢学者、儒学者を掘り起こし、その著作を整理するところから進めたいと思っています。

東アジア文化交渉学の研究拠点として

2012年、関西大学東西学術研究所内に文化交渉学研究拠点が設置されました。開設の経緯とその成果についてお聞かせください。

2007年、文化の交渉に関心を持つ先生方と共に、文部科学省グローバルCOEプログラム「東アジア文化交渉学の教育研究拠点形成」を申請し、採択されました。これにより、08年に文学研究科内に文化交渉学専攻、11年に東アジア文化研究科・文化交渉学専攻を開設。12年から文化交渉学研究拠点を設置し、グローバルCOEとしての研究機能を引き継いで発展、充実させ、14年より私がそのリーダーを務めています。
 近年、文化交渉学においては、複眼的な視点からさまざな成果が生まれています。私も中国のみを研究対象にしていたのが、日本や琉球、韓国・朝鮮、ベトナムへと関心が広がりました。考えてみれば当然のことで、儒教一つとっても東アジア全般に広がっており、その歴史の究明には中国はもちろん、東アジア各国について知る必要があるわけです。

留学生の活躍も目覚ましいと伺っています。

東アジア文化研究科には東アジアからの留学生が多く、その院生の博士論文の一つに「ベトナムにおける『二十四孝』の研究」があります。「二十四孝」とは中国の有名な教訓話ですが、日本の御伽草子やベトナムにも同様の話が伝わっており、それらの国々を知る者にしかできない研究と言えます。その他、「京城帝国大学における近代韓国儒教研究の展開」などもあり、こちらも儒教を東アジアの文化交渉という視点で取り上げた新しい研究成果と言えます。
 また、修了生は北京大学、台湾大学、ベトナム国家大学といった名門大学の専任教員となって活躍しており、その研究は海外でも高い評価を受けています。東アジア文化研究科を東アジアにおけるハブ研究科とし、彼らとのネットワークを生かして研究を深めていけるよう期待しています。

関西大学のもう一つの源流、泊園書院

一方で、先生は「泊園書院」の研究もされています。どのような学問所だったのでしょう?

泊園書院は、江戸時代後期の1825(文政8)年、藤澤東畡(とうがい)により大坂に開かれた漢学塾です。東畡の子の南岳、南岳の子の黄鵠(こうこく)・黄坡(こうは)、そして黄坡の義弟・石濱純太郎に受け継がれ、その教えを受けた門人は、1948(昭和23)年に閉じられるまでの120余年の間で1万人を超えるとされています。江戸から明治・大正・昭和前期に渡る激動期を歩んだ漢学塾はほとんどありません。適塾が1868(明治元)年に、懐徳堂が1869(明治2)年に閉校となった後、近代的学制が整う明治中期まで、大阪の学術と教育を維持、振興してきた大阪最大にして最高の学問所と言えます。

泊園書院が関西大学のルーツの一つとされる理由とは?

泊園書院は、政界・官界・実業界・教育界・ジャーナリズム・学術・文芸などの分野に多くの人材を送り出しました。黄坡と石濱は関西大学で長く教鞭を執り、黄坡は本学初の名誉教授、石濱は本学初の文学博士号取得者となりました。さらに、石濱は本学に「泊園文庫」を寄贈し、東西学術研究所の創設、文学部東洋文学科の開設等に尽力しました。大阪を代表する学者であった彼らを通し、江戸時代以来の長い歴史を持つ泊園書院の知的伝統が関西大学に合流しているのです。
 10月30日には、関西大学創立130周年記念シンポジウム「泊園書院と漢学・大阪・近代日本の水脈」を開催しました。また、梅田キャンパスでは10月末より、泊園書院の伝統を受け継ぐ「泊園古典講座」も開講しています。これまで、泊園書院については「知る人ぞ知る」存在でしたが、その存在と意義の大きさは今後ますます明らかになっていくことでしょう。


  • シンポジウムのポスター