イコノロジーと科学的調査で絵画の背景探る
蜷川 順子 教授

初期ネーデルラント絵画の諸問題の研究

イコノロジーと科学的調査で絵画の背景探る

作品に関する確かな情報を集め、仮説立証

文学部

蜷川 順子 教授

Junko Ninagawa

科学的調査を基礎に確かな事実を積み重ね、蜷川順子教授は名画の成立から現在に至る歴史を丹念にたどり、かかわった人物や文物を整理する。まるで名探偵のように新たな物語を読み取り、名画を一層意味深いものに変えていく。西洋美術史家として、特に初期ネーデルラント絵画を専門とする蜷川教授は、何世紀も前の古典作品にも、まだまだ新しい発見があり、新たな価値が生み出されることを証明している。

油彩技法が確立された写実主義の時代

ご専門は西洋美術史とお聞きしていますが、その中でも主な研究対象は?

15世紀から16世紀にかけて、ネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクとフランス北部、ドイツ西部を含む、低地の国々)と呼ばれる地域で発展した「初期ネーデルラント絵画」を研究しています。主な画家には、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ハンス・メムリンク、ヒエロニムス・ボスなどがいます。中でも、ファン・エイクは塗り重ねた油彩の絵具層に透明に近いグレーズを施すなど、画期的な絵画技法を発明し、現代まで続く油彩技法の基礎を確立した人物として重要です。

初期ネーデルラント絵画はどのような特徴がありますか?

中世のヨーロッパでは教会が絵を発注し、主に宗教画が制作されていましたが、当時のネーデルラントは経済と政治の中心地で、経済力をつけた市民が台頭し、画家に絵を発注するようになりました。それに伴い、これまでのキリスト教の図像とは違った、市民的な要素が絵の中に入ってきます。聖書の物語を描きながら、複雑な寓意やメッセージがたくさん描き込まれるようになります。
 技法的には、ファン・エイクに始まる油彩への転換が進み、肌理(きめ)、質感を精緻(せいち)に描き出せるようになり、写実主義の表現が高度に発達しました。
 このように初期ネーデルラント絵画の時代は、受容層や題材、技法など、さまざまな面で新しいものが出てきて、クロスオーバーな状況が生まれていました。その現実を画家がどのように見て、どう表現したかを探ることは非常に興味深い作業です。


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科学の目で見つめ直す、作品成立のプロセス

美術史の研究にも、いろいろな手法があると思います。先生はどのようなアプローチの仕方をされているのですか?

私も翻訳にかかわった『初期ネーデルラント絵画─その起源と性格』の著者である、アーウィン・パノフスキーが、本格的に理論化したイコノロジーという研究手法があります。イコノロジーは図像を解釈し、そこに含意される意味内容や歴史的、哲学的、文化的意味を探究するもので、私はこの手法に深い感銘を受けました。しかし、オランダやベルギーの大学で、科学的調査を中心にされている先生方に出会ってからは、イコノロジーとテクノロジーの手法を合わせることが重要だと考えています。

絵画の科学的調査とは、どのようなことをするのですか?

科学的調査は、作品に関する情報を得るために、機器を用いて作品の物質的特性などを調べます。現在では裸眼観察を含めて、電子顕微鏡などを用いた光学的調査が主流で、斜光や、紫外線、赤外線、X線など可視光線以外の光線を用いて調査することもあります。
 このような調査によって、例えば、下に絵があるとか、この顔は後年に描き加えられたという事実が明らかになると、作品の持つ意味が全く違ってきます。今、目にしている絵ができるまでに、どんな人がかかわったのか、最初に注文した人、顔を描き加えようとした人はどんな立場で何を考えたのかなど、歴史のダイナミズムをたどるのはワクワクします。現代の美術史研究では、科学的調査によって、制作時期や技法などに関する情報を得ることは、もはや欠かせません。

科学的調査は実物を直接見なければできないのでは?

通算でベルギーに1年半以上、オランダに足掛け4年いた間は、なるべく実物を見る機会をつくっていました。本当はもっと行きたいのですが、大学で学生と接するのも楽しいので、しばらくは日本で研究するつもりです。現地での科学的調査は報告書が出されるので、それを読んで推理しています。
 初期ネーデルラント絵画のような古い作品の実物を入手するのは難しいですが、芸術学美術史専修ではもう少し新しい作品を標本模型として購入しています。例えば、オスマン帝国時代のトルコで制作された、フランス柄のゴブラン織の実物を見ながら、東西交流を探ったりします。また、収集した作品は、学生の企画による展示に利用する場合もあります。

ダフィットの名作に隠された秘密を明かす

500年以上も前の初期ネーデルラント絵画について、徹底的に研究された今でも、新しく分かることがありますか?

実は最近、科学的調査結果だけでなく古文書分析もおこなうことで、重要な発見をしたのです。16世紀の画家ヘラルト・ダフィットの代表作に、ベルギーのブルッヘ(ブリュージュ)市立美術館が所蔵する祭壇画『キリストの洗礼三連画』があります。祭壇画とは教会や家庭内の祭壇を飾る、宗教的主題を描いたパネルです。ダフィットのこの祭壇画は、中央のパネルにキリストの洗礼の様子、両翼にこの絵の寄進者の家族が描かれています。
 寄進した家族を両翼に描くのは、当時の祭壇画にはよく見られますが、左翼に描かれた一人息子が、右翼の母親の前に並ぶ娘たちとは異なり、父親の影に隠れるように描かれています。寄進者である父親は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の高官だったことが、古文書から分かっています。それだけの名士でありながら、息子は結婚もしないまま亡くなっています。現地の古文書を仔細に調べると、この息子は極めて病弱だったのではないかと推察され、それを証明する資料も探し、論文にまとめました。誰も指摘していなかったことだったので、ドイツの学術雑誌に掲載されました。

他にも、関心のある研究テーマはありますか?

「近代のキリスト教図像の変容」に興味があります。幼子イエスはもともと人間的な存在で、中世の西洋美術では必ずマリアに抱かれていました。初期ネーデルラントでもそうです。ところが、16世紀後半になるとイエスが単独で立つ絵が急に増えてきます。その姿は、釈迦誕生のエピソードを思わせるところもあって、アジアとの接触による影響も考えられます。
 単独のイエス像が絵の題材となるのに並行して、単独のマリア像も描かれるようになります。日本では、江戸末期に来日した外国人のためにキリスト教が再上陸します。しばらくして、パリ外国宣教会がマリア像をいくつか贈っていますが、イエスを抱いていない単独の像もありました。単独のマリア像は何を意味するのか?なぜ、日本にそれを贈ったのか?これには深い背景があって、謎解きをした論文も数本書きました。これらをまとめて、本にしたいと思っています。

美術史研究は難しくないですか?誰でも楽しめますか?

誰でも楽しめますよ。絵の見方には決まりがありませんから、それぞれの楽しみ方で見ればいいと思います。その上で、モデルが存在したのかなど、絵の背景の情報を知りたくなったら、ぜひもう一歩深く踏み込んでください。きっと、歴史や地理、宗教など複雑に絡み合っている様子が分かって、また違う面白さが見えてくるはずです。


  • ヘラルト・ダフィット『キリストの洗礼三連画』
    一人息子の描かれ方から秘密が明かされる
    Permitted by Till-Holger Borchert


  • ヘラルト・ダフィット『キリストの洗礼三連画』
    『キリストの洗礼三連画』を閉じた場合の扉絵から、後に描き加えられたことがうかがえる
    Permitted by Till-Holger Borchert