大阪の市街地改造と集合住宅
岡 絵理子 准教授

街をつくる住まいの調査研究

大阪の市街地改造と集合住宅

街づくりで集合住宅の果たす役割

環境都市工学部

岡 絵理子 准教授

Eriko Oka

都市計画と集合住宅を専門に、「街をつくる住まい」について、大阪を中心に調査研究してきた。住宅が道に面して並び、街をつくる。そのような「街をつくる住まい」は、都市に暮らしの場を提供するだけでなく、燃えない街をつくるという防災面での機能も期待され、都市政策と結び付いてきた。1つの建物に家族でもない人が集まって住む集合住宅、にぎわいの街をつくる店舗付きの集合住宅が発展した。岡絵理子准教授は、独自の視点から都市における住宅の歴史に光を当てる。

大阪の住宅事業と道に面した集合住宅

集合住宅は、大阪ではどのように発展したのですか?

大阪では市営の鉄筋コンクリートの集合住宅が、1930年(昭和5年)に日本橋の近くに初めて建てられました。当時の街区は、道に面した場所には店と住居を兼ねた戸建住宅が多く、その後ろ、つまり街区の内側には空き地があったり、長屋やバラックが建っていました。この市営住宅はその街区の中央に新しい道を通して、その道に面して建てられました。不良住宅や路地のあったところに、急に新しいメインストリートができて、4階建ての真新しい建物が並んだわけです。市としては、道を設けて、燃えない建物を並べることで、延焼防止もできると考えた。つまり、住宅の供給を含め、街を変えることを目的とした都市計画だったわけです。最初に鉄筋コンクリートの集合住宅が建設されたのは東京でしたが、当時、街を変えるという目的で集合住宅建設を行ったのは大阪だけだったと思います。
 ところが、この市営住宅はうまくいきませんでした。もともとそこにあった長屋やバラックに住んでいた人が住人になったので、ガスや水洗トイレといった最新設備の使い方を誰も知らず、すぐにボロボロになってしまったそうです。その後、戦争が始まって、鉄筋住宅をつくるどころではなくなり、この街の改造事業は終わってしまいました。

戦後はどうなったのですか?

戦争が終わると、住宅不足を解消するために、大阪府や大阪市の住宅協会などが設立され、その融資を受けて民間の集合住宅が建設されました。それは、下階にオーナーの店舗や事務所が入り、上階が賃貸集合住宅というものでした。同じころ、ヨーロッパでは住宅と事業所を別々にする、建物の用途純化の動きが強くなっていました。それに対して、大阪では資金を貸し付ける公共機関や建築関係者、さまざまな事業者が話し合って、オフィスを建て替える時には、上階に集合住宅をつくろう、それを補助する融資もしようということで進められたのです。こうしてできた建物は、まさに街をつくる集合住宅でした。
 その後、建築基準法の改正などもあり、道からセットバックして建物を建てるようになります。下階に事業所などを入れると権利関係も複雑になるので、住宅だけの建物にするという傾向が主流になり、現在のタワーマンションのような集合住宅へと変わっていきました。


  • 桜が満開の関西大学・千里山キャンパスにて


  • 地域の課題を発見する街歩きの調査
    吹田市佐井寺・愛宕山


  • 地域の課題を発見する街歩きの調査
    大阪市・中之島GATE

街を歩けば、不思議な建物に出会う

街をつくる住まいに興味を持ったきっかけは?

ある日、天満にある象印マホービン株式会社の本社ビルに出会ったのです。4階までは各階の高さが高いけれど、そこから上の階は低い。明らかに、上階には人が住んでいる。しかし、バルコニーがなく、一見すると窓がきれいに並んだ立派なオフィスビルに見える。なぜ、このようなビルができたのだろう? と思ったことが研究の始まりです。ちなみに、1970年の建築基準法改正で共同住宅では2方向の避難経路の確保が義務付けられて以降、バルコニー付きの集合住宅が一般的になっています。

調査の中で、面白い建物は見つかりましたか?

いろいろありましたよ。建築基準法改正前の古い5階建ての集合住宅では、一見すると避難経路が2方向確保されていなかったのですが、なんと消防署で出動する時に使うポールのようなものが建物の一番奥に取り付けられていてびっくりしました。当時は2方向避難ができなくても問題にはならなかったのですが、やはり設計者は安全な避難のために奥にも何かあった方がいいだろうと取り付けたのだと思います。
 また、不思議な円形の集合住宅もありました。住民のおばあさんに部屋を見せてもらうと、布団袋が置いてあったので、引っ越しの用意かと思っていたら、各部屋の形が台形になっていて、押し入れは三角形。布団を押し入れに収納できないので、布団袋を使っていたのです。このような住宅、今では考えられないですね。


  • 象印マホービン株式会社本社ビル


  • 1958年竣工の大阪府住宅協会 桜川住宅


  • 円形の集合住宅の内側の様子

関大前通りをエリアマネジメントで面白く

関大前通りを良くするための調査研究もされていますね。

関大前通りは、昼間は学生で混雑しているうえに、そこに車も入ってきて歩きにくい。夜は一部の学生が飲食店の前に集まり、大きな声で話すなど、近隣の方々に迷惑をかけていることもあるようです。これは問題ではないかと思い、2012年に関大前通りに店や事業所を構えてらっしゃる方々、2013年には近隣の住民の方々にアンケート調査を行いました。
 お店の方は、本学の学生や教職員を顧客としてターゲットにしている、学生をアルバイトとして雇っているなどのつながりがあることが分かりました。住民の方からは文教地区だと思って引っ越してきたのに、「子供にとって良い環境ではない」というような厳しい声もありました。
 この調査を実施して、やはり本学も加わって、地域と共同で関大前通りを良くしていく必要があると思いました。そこで、大学の協力を得て、関大前通りにゼミやミーティングができるスペースを設置します。管理運営は学生が行い、建築学科だけでなく、他学部の先生方や学生の皆さんにも利用していただけます。また、地域で寄り合いをしたいという希望があれば、使っていただこうとも考えています。この場所をうまく使って交流を深め、大学も含めた地域の方々が関大前通りをマネジメントする自治組織ができればいいなと思っています。
 さまざまな当事者がかかわる地域や施設を一つのエリアととらえ、総合的に調整しながら管理・運営する体制・組織をつくり、幅広い問題の解決や改善、活性化、魅力の向上などに取り組むエリアマネジメントの手法は、グランフロント大阪などでも取り入れられて成果を上げています。
 このようなことは楽しくないと続きません。私達、大学の関係者も地域の方も楽しんで、面白いことができるという方向に進んでいけばいいなと考えています。

今後の抱負をお願いします。

今 、一番行いたい研究は、街をつくってきたいろいろな事業の再評価です。街を変える事業の中には、赤字を招いたという理由で否定されているものもありますが、行政が行う事業の中には赤字になってもやらなければいけないこともあります。その事業のおかげで街が良くなった面があるならば、赤字だから負の遺産とすべてを否定するのではなく、評価すべきことはきちんと評価しなければならないと思っています。