“教祖”は常に新しく生み出される
宮本 要太郎 教授

「聖伝」の比較宗教学的研究

“教祖”は常に新しく生み出される

新宗教の研究から現代の“貧・病・争”の問題まで

文学部

宮本 要太郎 教授

Yotaro Miyamoto

宮本要太郎教授は、聖徳太子が聖なる人物として神話的に伝承されていることに注目し、その宗教的な意義を研究した博士論文に基づく著書『聖伝の構造に関する宗教学的研究』を2003年に出版した。神話と歴史が統合される「聖伝」の宗教的構造を追究するとともに、一貫して新宗教の研究を続けてきた宮本教授は、現代の閉塞的な社会状況の中で宗教の社会的活動への関心を深めている。

記憶が伝承され、「教祖」が形成されていく

そもそも「聖伝」とは?

一種の伝記なのですが、普通の伝記と違うのは、取り扱う対象が一般の人間とは異なり、その人を通して何か「聖なるもの」があらわれているという意味で、「聖なる人物」を取り上げているところです。イエス伝も仏伝も聖伝といえますが、新宗教の教祖の場合にもあてはまります。天理教や金光教などは教祖が亡くなってから100年以上たっていて、信者の方たちは直接には教祖を知らない。しかし、非常にリアルな教祖のイメージを持っている。それがなぜ可能かというところから、「教祖」は常に新しく生み出されていく、あるいは構築されていくのではないか、というふうに捉え直したわけです。
 教祖についての伝承や記憶が、常に教祖像を更新し続け、それによって教祖が今ここに生きているという実感を持ち続けることができる。ある時代に生きた人物(過去)よりも、その人についての記憶が伝承され、時には意味を組み換えられて「教祖」(現在)が形成されていくという側面のほうに、私の関心もシフトしてきたのです。
 ある人物を聖なる存在と見なして、その人の伝記を書く、場合によってはその人の前世までさかのぼって描くというタイプの宗教的物語は、古代から存在します。それを「聖伝」という切り口で、学問の対象としたわけです。聖人伝、聖者伝、祖師伝、教祖伝など、聖なる伝記は世界中のさまざまな宗教において見いだされますが、それらを包含する概念としての聖伝に対する比較宗教学的研究は、ほとんど進んでいません。

聖徳太子その人よりも、その実在を信じた人々に着目

聖徳太子伝を中心に聖伝の構造について研究されましたが、聖徳太子は本当に存在していたのですか。

よく聞かれるのですが、私はその問題にそれほど関心がないのです。聖徳太子という人物が実際に存在したかどうかではなくて、少なくとも聖徳太子の実在を信じて疑わなかった人たちが、聖徳太子のイメージをどんどん膨らませていって、膨大な聖徳太子伝が書かれた。そういう人たちがいたというのは歴史的な事実なのです。その人たちが、ある時代にどうしてこのような聖徳太子のイメージを持ったのか。そして、どうしてこのような聖伝が書かれたのか。
 聖徳太子伝と現代の教祖の聖伝を比較してみると、新しく見えてくるものがあります。さまざまな歴史の出来事の意味を新たに解釈し直して、それを救済史に書き直す─聖徳太子伝はそういうふうに書かれており、いわば「歴史の神話化」です。
 一方、新宗教の教祖伝の場合は、現に生きていた時代と連続して今に生きている教祖をリアルに生き生きと描き出すところに力点が置かれています。そういう意味では、逆に「神話の歴史化」といえるでしょう。つまり、聖なる存在としての教祖が今ここに、我々と一緒に、辛苦を共有して生きていらっしゃるんだということを読み取る、あるいは実感することができる。だからこそ、聖伝は救済の力を持つことができるのです。

一口に新宗教と言っても、近代になって生まれた宗教と現代の宗教では違いがあるのでは?

少なくとも高度経済成長期までは、日本の新宗教は主に“貧・病・争”に向き合い、その苦しみから人々を直接救うというところに特徴がありました。しかし、高度経済成長期以降はいわゆる自分探し、自己とは何かを追究するような方向に向かい、それを新宗教と区別して「新新宗教」という言い方もされます。けれども、自分自身が何か聖なるものとのつながりを求めるという点では、古いタイプの新宗教も新新宗教も基本的には同じではないか、と私は考えています。

学生と一緒に四国遍路、宗教施設訪問

毎年、学生を連れて四国遍路に出かけたり、新宗教教団などを訪れているそうですね。

宗教学実習の授業で、下調べをしたうえで実際に宗教施設を訪れ、自分の目で確認し、質問に答えてもらうフィールドワーク的なことを行っています。私の他の授業に出ている学生も希望者は参加することができ、天理教、PL教団、弁天宗などの新宗教の教団やモスク、神社などを訪問しています。
 四国八十八箇所のお遍路は、毎年夏休みを利用して少しずつ回っています。強い日差しに照らされて長時間歩いていると、あちこちで声をかけられ、時には「お接待」を受けたりします。現代の日本社会では、見知らぬ他人から親切にしてもらう体験が希薄なので、そういう風土は学生にとっては斬新な宗教体験みたいですね。


  • フィールドワークとして毎年学生とともに回っている、四国八十八箇所のお遍路


  • 神戸モスクは神戸市中央区にあるイスラーム寺院。日本で最初に建てられたモスクでもある


  • モスクの内部


  • 稲荷神社の総本宮とされる伏見稲荷大社


  • 千本鳥居

魂の貧困に対する宗教の社会的活動

これからの研究課題や取り組みたいことは?

聖伝の研究は続けていくつもりですが、最近特に関心があるのは宗教の社会的活動です。例えば、今日新たに貧困の問題がクローズアップされていますが、貧困者の救済は、実は古くから宗教の真骨頂だったわけです。現代において、宗教が貧困に対して取り組む可能性はどこにあるのか。例えば、ホームレスの“ホーム”という意味を、屋根付きの家ではなくて自分の魂が安心して休めるところと捉え直すと、日本人の多くがホームレス化しているのではないでしょうか。
 “病”の問題もリンクしています。増えているうつ病や引きこもりは、現代的な病だと思います。また“争”の問題も根深いところにあり、家族の中でも絆が失われ、身近なところに不和や不信が広がっています。
 “貧・病・争”の問題は、戦後の混乱期よりも現代のほうがむしろ深刻ではないかと思えるくらいです。貧しさというのは、それが理不尽であればあるほど受け入れ難いものです。みんなが貧しい時よりも、今日の格差社会で生み出される貧困は理不尽で、そこから抜け出せない人たちからすれば、非常に深刻な問題です。
 信仰をもっていて、社会を良くしていこうといろんな活動をしている人たちが実はたくさんいるのですが、ほとんど知られていません。魂の貧困、魂のホームレスみたいなところから、現代社会に宗教が存在する意味、活動の可能性について考えていきたいと思っています。