庶民の一生を浮き彫りにする“歴史人口学”
浜野 潔 教授

「宗門改帳」をデータベース化し、共同研究を推進

庶民の一生を浮き彫りにする“歴史人口学”

京都は都市の歴史人口学研究に最適の場所

経済学部

浜野 潔 教授

Kiyoshi Hamano

江戸時代の村や町で作成された「宗門改帳」が、コンピューターと出合うことで、新しい光を放ち始めています。家ごとに名前、年齢、続柄などを記した史料が、「歴史人口学」の方法で集積、分析されると、歴史に埋もれた庶民の一生や家族の暮らしぶり、町の動きが目の当たりに浮かび上がってくるようです。歴史人口学の第一線で研究を深めている浜野潔教授に、その方法や成果について聞きました。

日本における歴史人口学は「宗門改帳」から

歴史人口学は、人口史の研究を大きく変えました。フランスの人口学者ルイ・アンリが第二次世界大戦後、前近代社会の人口推計データとして、キリスト教会に残されていた洗礼・結婚・埋葬の記録を使い始めたのが出発点です。フランスとイギリスで確立されたこの研究は、世界中の歴史学者・人口学者に衝撃を与えました。いち早くこの研究方法に着目し、日本に本格的に伝えたのが速水融氏(慶応義塾大学名誉教授)でした。浜野教授は慶応義塾大学で、速水氏から直接学びました。日本における歴史人口学の研究は、全国にある「宗門改帳」を使って始まります。宗門改帳とは

宗門改帳とは「島原の乱」後、キリスト教を禁止し、全国民が仏教徒であることを村・町ごとに証明させた文書です。1638年には幕府直轄領で、1671年からは全国的に毎年作成が義務づけられました。家ごとに名前・年齢・続柄が書かれ、中には、持高・牛馬数や結婚・養子縁組・出稼ぎなどの移動情報が書かれたものもあります。
 宗門改帳は、村の人口、年齢別・男女別構成、家族構造など、さまざまなことを教えてくれます。連年にわたって大量の宗門改帳が残されていれば、得られる情報は膨大なものになります。毎年の変化を追うことにより、出生率、死亡率、結婚年齢などを知ることができます。また、一人ずつの一生を追ってライフコースの変化に焦点を当てることも可能です。


  • 宗門改帳の表紙


  • 宗門改帳の本文

地域差が大きい江戸時代のライフコース

このような復元作業が容易でないことは想像できます。毎年の情報を家ごとにシートに書き写すという仕事を、年数分繰り返す必要があります。その膨大な情報を扱うのに、コンピューターはうってつけです。浜野教授は高校時代からコンピューターに興味を持ち、周りにはマイコンを組み立てているような友人もいたそうです。しかし、パソコンが普及する以前のこと。コンピューターの教室に通い、自らプログラムを書いてデータを処理しました

このデータから、当時の記録者自身も知り得なかったさまざまな出来事が明らかになります。例えば、同じ日本の中でも、大きな地域差のあったことが分かります。東北地方の農村では、女子は数え年15歳前後で、男子でも10代後半で結婚したのに対し、西日本の村では男女とも20代の、今とあまり変わらない年齢で結婚していました。なぜこのような違いが生じたのか。結婚年齢は出生率を規定する重要なファクターでしたから、出生率にも大きな違いがあったのではないか、という予想ができます。
 中部と西日本では、晩婚の西日本のほうが出生率が低いという予想通りの関係が見られますが、より早婚の関東・東北で子どもが少ないという、予想とは逆の結果が出ています。東北では低出生率のゆえに少しでも子どもを増やそうとして結婚が早まったのではないか、という仮説を立てることができます。
 このような数字を積み上げて宗門改帳を読み解くと、江戸時代の人々のライフコースが少しずつ浮かび上がってくるのです。

幕末の京都に生きた人々を追って

浜野教授は1996年に関西に移ってからは、京都の歴史人口学をテーマとしています。江戸の史料は関東大震災や空襲で灰燼に帰しましたが、京都は古文書の宝庫です。宗門改帳を含む数多くの近世文書が残されており、「都市の歴史人口学を研究する最適の場所と確信するに至った」と言います

分析している京都の町の一つ、西陣の花車町では1819(文政2)年から1868(明治元)年まで50年のうち、36年分の宗門改帳が残されています。平均世帯規模は3~4人と比較的小さく、夫婦と子ども数人からなる世帯が典型的な家で、単身世帯も比較的多かったのです。彼らの多くは借家住まいで、転職したり家族が増えたりすると、すぐに新しい場所に移りました。その一方、奉公人も含めて7~17人の世帯規模で、この町に住み続けている家もありました。
 観察できる50年間の間に、町の人口は2度大きく落ち込んでいます。まず1836~37年、天保の飢饉により、花車町では1年間に人口が32%も減少しました。未曽有の不景気で「商売が暇」になり、生活が逼迫している状況がうかがえます。2度目の人口減少は、1858(安政5)年から1861(文久元)年の3年間で、人口が31%も減少。日米修好通商条約締結により自由貿易が始まり、生糸の値段が高騰して国内市場に回る品物が不足したため、西陣は深刻な打撃を被ったのです。世帯数、奉公人とも大きく減少しました。
 このように宗門改帳が教えてくれる情報はきわめて豊富であり、幕末の京都に生きた人々の生き方を鮮やかに描いてくれます。彼らは歴史の表舞台に登場することはなかったのですが、したたかに生きてきたことを読み取ることができるのです。

データベースを共有し、共同研究を展開

現在、浜野教授は文部科学省の科学研究費補助金による研究に取り組んでいます。「近世日本の歴史人口データベースを利用した比較地域分析」と題する3年がかりの共同研究です

この研究には、私以外に他大学の6人の研究者が参加しています。これまでの研究で蓄積されてきた歴史人口データを共同研究に適したデータベースとして整備し、さらに新たなデータを収集し追加する作業を進めています。甲南大学の中里英樹先生(文学部助教授)の研究室にサーバマシンを設置してデータを蓄積し、共同研究者がインターネットを介して検索、抽出することを可能にしました。
 濃尾地方の新しい史料を入力するとともに、歴史人口学の研究が進んでいる福島県郡山市周辺地域との比較研究を行います。人口パターンが対照的な2地域を分析して、その違いが何によるものかを実証していきたいと思います。


家ごとに台帳化したBDS(Basic Data Sheet)
このBDSは京都・西堂町の史料、綿屋忠兵衛一家の記録。1826(文政9)年以降、名前の明記してある年には( )が記入されている。当初、宗門改帳に年齢の記載の必要はなかったが、1843(天保14)年以降、記載されるようになる。