「街歩き」10年のフィールドワーク異質なものと出会う驚きと発見
永井 良和教授

好奇心全開で街へ出よう! みんな目の付けどころが違う

「街歩き」10年のフィールドワーク異質なものと出会う驚きと発見

社会学部社会学専攻

永井 良和教授

Yoshikazu Nagai

街歩き10周年。永井ゼミの名物である「街歩き」が始まってから10年が過ぎました。「街を歩き、人を訪ね、本を読む。そして、考え、書く。これを、ただひとつの約束としたい。街は広く、多くの人が暮らしている。その人たちを訪ねてみるのは、楽しいことだ。同じ街に暮らしているのに、考え方も生き方もちがう。だから驚きがあり、発見がある」(関西大学教育後援会発行『葦』第100号)と、永井教授が書いたのが1995年。その前年から街歩きが始まっています。以来、「驚き」と「発見」を学生と共有しながら、永井教授は「都市社会学」「大衆文化論」を講義し、卒業研究を指導してきました。「街歩き」はすなわちフィールドワークですが、そう呼んでしまうと通りは良くても、この方法が持つ独自の意味が失われ、「好奇心」を育てながら現場に出て実践的に学ぶという教育面が抜け落ちてしまうようです。街を歩き、人を訪ねた学生が体験した驚きや発見を、自分の言葉で語ることを重視する永井教授自身、大学と社会の間を「行ったり来たりする存在」だと言います。最近の日本社会は子どもたちも含めて、自分と異質なものに対して距離を置こうとするばかりか、排除しようとする傾向が見られます。異なるものを驚きと発見の目でとらえる「好奇心」が希薄になっているようです。「だんだん体力が衰えていきますが、目の力だけは維持したい」と言う永井先生の研究室を「のぞいて」みました。

自分の生きた時代背景を考え直す社会学の勉強は何でもありだ

この研究室の本棚にいろんなジャンルの本が並んでいるように、都市社会学や大衆文化論の分野は、雑多で幅広いのが特徴です。その中で「街歩き」に代表されるフィールドワーク中心の研究方法を続けてこられました。その方法は社交ダンスを「異文化」としてとらえ、その受容、排斥、葛藤の歴史を考察した初期の研究から一貫していますね。

フィールドワークもかつては目新しい言葉でした。私の学生時代のころは、人類学や民族学がその方法で成果を上げていました。逆に言うと、アフリカの部族社会まで行かないとフィールドワークの名に値しないというような風潮もありました。それに対して私は、海外へ行く度胸もなく金もなくても、国内でフィールドワークはできるはずだし、社会学の方法としても有効だと考えました。私たちが受けた方法論上の刺激を、なるべく古びない形で若い世代にも知ってもらいたいという思いもあって続けています。
 「社会学部で何が勉強できるんですか」と高校生や受験生に聞かれると、「何でも」と答えます。それで物足りなさを感じる人もいますが、何でもできると聞いて喜んでくれる人のほうが柔軟性や自主性があると思います。私自身が社会学にひかれたのは、自分のしたいことをできたからです。25年ほど前の社会科学は、専門性は高かったかもしれないけど、間口が狭かったですから。
 当時、社交ダンスは衰退の一途をたどっていました。京都に古いダンスホールが残っていて、たまたま踊っていただいた相手の方は母親よりも年上でしたが、とても上手なんですよ。プロとはこういうものだと思いました。そのプロの世界が消えつつあったわけで、何か調べてみたいなと思ったのがきっかけです。
 ダンスの素養どころか、私は男子校出身で女性への接し方は全然駄目。大学に入って初めて女の子としゃべったので、どうコミュニケーションしてよいか分からない状態でした。そのリハビリも兼ねて、自分の生き方を見直すというか、自分の生きた時代をその背景から考え直すのが自分の研究だと思うようになりました。女性とうまくコミュニケーションできないというのも、男子校に通っている間に矯正されたからではないか。そこで奪われたものが何だったのか。

時代背景を調べて、失われたもの、奪われたものが何だったのか考える。その考え方は、昨年出版された「南海ホークスがあったころ」(橋爪伸也氏との共著)にもつながっています。探偵や風俗の研究の場合もそうですか。

私自身が常に見られている感じを持っていました。カメラが普及するにつれて、人の生活をのぞき見することが一般的になりました。個人もジャーナリズムも、警察までもどんどん写真を撮るようになったのです。肉眼で見るのではなくレンズを通して見ることが世の中の主流になってきて、肉眼の文化、目で見る文化が衰えるのではないかと感じ、監視カメラなどのカメラ文化が拡大する以前にあるものが何なのか、関心を持ったのです。カメラが発達する前は、人は直接のぞいていました。社会科学の研究者はのぞきのことなど取り上げませんが、のぞきをテーマにして風俗や文化を考えようと、のぞき研究を始めました。


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面白いネタであっと言わせる快感大学の正門までの間に人生を学べ

社会へ出たら本の中に書いている理屈に合わないことがいっぱいあります。学生もやがて「都市社会」で勤める「大衆」の一人として生活していくことになります。それを先取りして街に出て学ぶと言うことは、どのような意味を持っているのでしょうか。

まず、現場で働くおっちゃんやおばちゃんの声を聞いてこいということです。若かったら理屈なんて2年間でマスターできると思います。それよりは私のゼミにいる間に、理不尽なことの多い世の中について知っておいたほうが、きっと財産になります。私自身、学生に教えてもらうことが少なくありません。
 街歩きを始めたころは学生数人と飲み会のついでに歩いていただけだったのです。そのうち事前に伝えると、毎回10~15人くらい集まるようになりました。そうなると気が付く点が違って、お互いに刺激にもなる。目の付けどころがみな違う。一つのものがどう違って見えるのかではなく、目線が全く違うのです。何にカメラを向けるか、何の前で足を止めるかで、初めて別の人の見方や考え方を知るわけです。
 さらに、ゼミで発表するときにみんなに受けたいと思って頑張りますが、このイチビリ心がすごく大事なのです。「あんな面白いネタを拾ってきよった、負けられへんな」となる。こういう切磋琢磨が生まれてきます。理屈のお勉強を始めるとつぶし合いの議論になり、つぶしたものが勝ち残ることになります。そうではなくて、より面白いネタであっと言わせることができるのです。この快感をいっぺん知ったらやめられませんよ。

送迎バスで通学しなければならない郊外の大学でも多いですが、関大はその気になれば、門を出たらいつでも街歩きができます。ここで社会学部のPRもお願いします。

街歩きで人気があるのは、新しい商業施設ではなく昔からの商店街です。普通の住宅街に行っていきなり住民とお話をするのは無理ですが、商店街ならそれが可能です。
 関大のように喫茶店や古本屋などがある学生街は貴重です。学生は大学の正門までの数百メートルで人生を学んでいると思います。
 元気な関大、庶民派の関大というのも、トータルイメージとしていいと思いますが、もっと各学部で色合いの違いがあってほしいですね。最近は主体的に好奇心を表に出せる人が減ってきて、出し方が下手になっています。好奇心が全開で元気がある人は、何でもできる社会学部をお勧めします。

好奇心がキーワードですね。永井流に考えれば、好奇心を発揮しにくくなったのはなぜか、時代背景を調べて、奪われたものが何だったのかを追求し、好奇心の復権とともに自己回復を図ることも一つのテーマになりそうです。これからも驚きと発見に満ちあふれた街歩きが続くことを期待しています。


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