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【執行部リレーコラム】ボアソナードつながり

2017.01.10

学長 芝井 敬司 
 11月18日(金)に、法政大学教育後援会の役員・事務局の方5名が来学され、関大側の教育後援会の方と昼食を共にする機会があり、私も参加させていただいた。ちょうどこの日は、本学の避難訓練の日にあたっていて、その様子を見学していただいた後での食事会であった。以下はその折にあわせてあれこれ調べてわかったことや、その場のお話から聞き知ったことである。
 周知のように、関西大学のルーツは、1886(明治19)年、大阪市内西区の願宗寺本堂で開校された夜間の関西法律学校である。創立者は12名で、大津事件で有名な児島惟謙をはじめ、当時の大阪始審裁判所と大阪控訴院に関わる裁判官、検事などの司法官が9名いたことから、大阪に赴任した若き司法官たちが創設した法律学校といわれている。また、創設者たちには、明治政府の法律顧問として来日したパリ大学教授ボアソナードの薫陶を受けた司法省法学校の5名の卒業生や、彼の住み込み書生を経て検察官となった堀田正忠がいることから、「ボアソナードの学校」とも捉えられてきた。
 さて、法政大学である。この大学のルーツは1880(明治13)年の東京法学社で、翌81年に設置された東京法学校を経て1889(明治22)年には和仏法律学校となり、今日の法政大学へとつながっている。大事なことは、創設時の東京法学校の設立に関わったほとんどの者がボアソナードの門下生であったという事実である。1881年に設立された東京法学校は、ボアソナードから直接に指導を受けた司法官の薩埵正邦(さった・まさくに)が中心となって運営され、さらに開校時からボアソナード自身が授業を担当していた。ボアソナードは、1883(明治16)年からは同学校の教頭となって無報酬で法律を教授したので、世に「ボアソナードの法学校」として知られたという。
 以上のように、日本の東西において、2つのボアソナードの学校がほぼ時を同じくして開校したというわけである。どうしてこうなったのか調べてみて、今回これまで触れられていない小さな事実を、法政大学のホームページで見つけた。関西大学の創立者の一人、堀田正忠のことである。法政大学のホームページの記事によれば、東京法学社の「運営は、代言局を伊藤修と金丸鉄(かなまる・まがね)が担当し、講法局は薩埵正邦を中心に堀田正忠、橋本胖三郎(はんざぶろう)、大原鎌三郎らを講師に迎えて開校した。いずれもボアソナードの薫陶を受けた若きフランス法学徒だった」とある。つまり、堀田正忠は、1880年の東京法学社の発足時から講法局で講義を担当し、また新しい任地の大阪において関西法律学校の創設に関わり、講師を務めたのである。
 堀田だけではない。両校の設立に関わった司法省および司法省法学校の関係者は、いずれも、ボアソナードの門下生であるという共通点を持っている。一人の外国人の法学者が明治日本に投じた教育の灯火が2つの大手私立大学を生んだと言えば過大評価と論理飛躍になるだろうが、少なくとも関西大学と法政大学(そして明治大学も)の誕生に際して、その最初のきっかけを与えたのは、確かにボアソナードその人であった。


法政大学教育後援会の方々と
法政大学教育後援会の方々と