お知らせ

【執行部リレーコラム】玉岡さんに教えてもらったこと

2018.04.17

 学長 芝井 敬司

 2017年度から関西大学の客員教授を務めていただいている作家の玉岡かおるさんの作品に、『負けんとき―ヴォーリズ満喜子の種まく日々』(上下、新潮文庫)がある。一柳満喜子は、1884年に旧小野藩主で子爵になった華族一柳家の娘として生まれた。1908年に神戸女学院を卒業して日本女子大学校の助手に就いた。翌年にはアメリカに渡り、女子教育の名門ブリンマー・カレッジで教育を受けた。その後、満喜子は、アリス・ベーコンの下で彼女が主導する教育活動に参加し、アリスの信頼を得て養女となった。1917年、アリスが亡くなると帰国して、1919年には、建築家として有名なウィリアム・メレル・ヴォーリズと結婚した。結婚後、2人は近江八幡に清友園幼稚園や近江兄弟社女学校を含む近江兄弟社学園を創り上げた。
 玉岡さんの作品は、この活動的な明治の一女性を描く伝記的作品である。建築家ヴォーリズの名前は、近隣では彼が残した関西学院大学、神戸女学院大学、同志社大学の建物群を通じて、一般に多少とも馴染みがある。また、メンソレータムの製造・販売を行った近江兄弟社も、ヴォーリズ夫妻の事業活動の一環として広く世間に知られている。しかし、ヴォーリズ夫妻の活動としてはともかく、ヴォーリズ夫人となった一柳満喜子の一生について、私たちはこれまであまり耳にしたことがなかったように思う。
 ところで、ヴォーリズ満喜子の恩師アリス・ベーコンといえば、永井繁子、山川捨松、津田梅子ら1871年にアメリカに渡り、10年以上アメリカで教育を受けた女子留学生との交流が有名である。特にベーコン家に引きとられた山川捨松とアリスとは、山川捨松の帰国後も親しい友人関係にあって、いずれ協力して日本の女子教育を担う学校を作る夢を育んでいた。アリスは明治政府の招きで来日したが、『負けんとき』の主人公ヴォーリズ満喜子がアリス・ベーコンから英語の授業を受けたのは、この頃であったと書いている。
 1900年に、現在の津田塾大学の淵源となる女子英学塾を創設した津田梅子は、山川捨松とアリス・ベーコンが抱いた「日本の女子教育を担う学校を作る夢」を、2人から引き継いだといってもいいかもしれない。大山巌と結婚して大山捨松となった留学仲間は、華族の一員として振る舞うとともに、アリスや津田梅子の教育活動を、運営面、財政面、そして精神面で力強く支援してくれたが、自らが女子教育に専従するわけにはいかなかったからである。それゆえに、捨松とアリスが育てた夢は、津田梅子に託された。
 ほぼ同じころ、大阪にはNHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなった広岡浅子がいた。テレビで描かれていたように、この有能な女性経営者は、梅花女学校校長を務めた成瀬仁蔵の活動に共鳴して、日本女子大学校の創設運動の強力な支援者となる。当初は大阪に設置される予定であった日本女子大学校が、1901年に東京の目白台に計画変更されて創設されたのも、三井財閥から土地を譲り受けた広岡浅子の働きかけがあったとされる。そして、たいそう興味深いことに、ウィリアム・メレル・ヴォーリズと一柳満喜子が最初に出会ったのは、大阪の広岡家においてであった。広岡浅子の長女亀子はヴォーリズ満喜子の実兄恵三と結婚し、兄の恵三は女婿として広岡家を継いだ。
 津田梅子の女子英学塾は、幾多の困難を乗り越えて成長・発展していったが、梅子の健康は創業の苦労のせいで損なわれ、女子高等教育の開拓者に後継者の問題が生じた。梅子と捨松の親友アリス・ベーコンの養女となっていた一柳満喜子は、アリスの死をきっかけに帰国した1917年に、女子英学塾の後継者として打診を受けている。アリスを介した結びつきに加えて、津田梅子が卒業したブリンマー・カレッジに満喜子も通ったことが、打診の背景にあったのかもしれない。しかし、結局、満喜子はこの話を断り、大阪の広岡浅子のところに逗留してヴォーリズと出会った。
 以上のように、明治期の女子高等教育の歩みは、少数の先覚者の結びつきとこれを支える有力支援者のネットワークがあって、着実に進んできたように見える。1900年に日本初の女医養成機関として東京女医学校を設立した29歳の吉岡彌生、女子英学教授所を開設しながらコレラで命を落とした梅子の留学仲間である吉益亮子のことなどを考え合わせると、明治期の女子高等教育の前進には、理想を求める強い信念の人、大きな時代の趨勢、そしてリーダーたちと支援者を結ぶネットワークの三者が不可欠だった、そう強く印象づけられる。
 いや何も「女子高等教育のこと、明治期のこと、日本のこと」に話は限らない。そもそも理想の学校を創設しようとすること自体が、周りの普通の人からすれば、現実離れした「とんでもないこと」だったろう。同じく高等教育機関に所属する私もまた、こうした先人の歩みを確かめ、その情熱の一端に触れてみたいと感じている。