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【執行部リレーコラム】Broken Crayons Still Color

2018.03.26

学長補佐 岡田 忠克

 例年2月下旬から、ハワイ大学における研修を主とした国際健康福祉実習の引率をしている。今回のプログラムでは、YWCAが運営する女子刑務所から出所、もしくは仮釈放された女性の更生施設であるFernhurstを訪問する機会をいただいた。今回のコラムは、そこでの学生と入所者とのワークショップにおいて、いくつかの相談援助、支援に関連する英語のフレーズを、学生たちが日本での事例もしくは他の英語で端的に説明するいう取り組みでの出来事である。英語でのコミュニケーションが不慣れななか、なんとか課題をこなしていったのだが、一つのフレーズで手が止まってしまった。どのグループも同じ状況である。

 Broken Crayons Still Color

 学生たちも何となく意味は分かる。ただ日本語で代替できるフレーズや日本での事例をうまく入所者や施設職員に説明することができないのである。直訳すると、「折れたクレヨンでもまだ描くことができる。」となる。ここでの文脈に即して考えると、犯罪を犯した女性たちであっても、これからの努力次第で社会で活躍できる、彩りを放つことができる、とでもいえよう。Fernhurstの職員たちは、Second Chanceとも言い換えていたが、学生たちにはしっくりこない。この議論の中で学生から私に対して、「日本では同じような境遇の受刑者にSecond Chanceはあるんでしょうか?」と質問を受けた。
アメリカに限らず、先進資本主義諸国において競争原理は、社会を構成する優先的な価値となっている。競争を優先する社会では、強いものが富を独占し、クレヨンの折れた弱いものは排除されていく。しかしながら、同じ競争社会であるのに、アメリカと日本ではこのフレーズのもつ背景、文化性が大きく異なっていることに気づかされる。
 必ずしもアメリカ社会がすぐれているとも思わないが、少なくとも日本では、一度、犯罪を犯したり、ドロップアウトすると、脱落者としてのスティグマを与えられ、たちまち生活は困窮し、そこから抜け出すことが難しい社会となっている。折れたクレヨンは、新しい2枚目のキャンパスにもう彩りを付け加えることは無いのである。このような状況で日本の学生たちがうまく事例を説明できなかったことも無理はない。
 われわれ教育にたずさわる人間は、これからの未来を作り出す学生たちに、そのような社会のあり方を見直し、さまざま多様な価値を受け入れる社会の構築にたずさわることの意味を本来は教授すべきではないのだろうか。一度ドロップアウトしても、何度でもやり直せる社会、何度でも失敗できる社会を作り出す、そして多様な価値を受け入れる寛容な社会を作り出す、少なくとも、そういう価値を体現できる学生を育てていくべきではないだろうか。
 関西大学が目指す教育とは、今後どの方向に向かって行くべきなのか。昨年度、本学では三つのポリシーを策定し、公表している。そのうちディプロマポリシーでは、学力の三要素である知識・技能、思考力・判断力・表現力等の能力、主体的な態度について身につけることで学位授与することをうたっている。もちろんこのことを悪くというつもりはない。ただ、誤解を恐れずに言えば、何かが「できる」同じ品質のモンギリ型の人材を養成するのではなく、そして何かが「できる」ことを必ずしも唯一のスケールとしてとらえるのではなく、多様な価値観、文化があふれコンフリクトが起きる社会の中で、いったい関大人として自分が何をすべきなのか、何ができるのかを考え、多様な価値を受け入れる寛容な社会を作り出す学生を育てていくことこそ本学の目指す教育であるべきではないだろうか。また、こうしたことにより添えることができる教職員が大学には求められているのではないだろうか。
 この施設訪問で学生たちに理解して欲しいことは、受刑者のような社会的弱者に光を当て、その問題を社会に対して訴えることをしてほしい、ということではない。彼女たち自身が、その人生の中でいったん挫折、折れてしまったかもしれないし、その彩りや輝きは決して強いものではないかもしれない。ただ、どのような背景を持とうと、彼女たち自身も未来の担い手としての光そのものであることを今一度、理解してほしい。過去は変えることはできないが、未来は変えられる、その折れたクレヨンは無限の可能性を秘め光を放っている、そのことをひとりの人間として理解をして欲しいと思っている。
 ある仮釈放の女性の刑期が終わるのは2036年だという。刑期が終わったらワイキキでサーフィンをしたいと笑いながら話をしてくれた。彼女の未来が本人の望む形で実現してほしい、そして今度こそやり直して新しいキャンパスにさまざまな彩りを加えて欲しいと思う。ワークショップに参加した学生たちにこのフレーズはどのように響いているのだろうか。いつか日本でもこのフレーズが誰にでもストンと意味が取れるものになっていなくてはならない。



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