お知らせ

【執行部リレーコラム】「到達目標」という貧しい発想

2018.02.16

 学長補佐 堀 潤之

 高等教育政策において、学習成果の可視化に向けた道筋が着々と進んでいる。本学でも2017年度からいわゆる3ポリシーが全学的に見直され、特に各学部・研究科の「学位授与の方針」が学力の三要素に沿ったかたちに改訂された。次年度からは、同方針を踏まえたカリキュラムツリー及びマップも公表されることになっている。それを受けて、シラバスにおいても、学力の三要素に沿った「到達目標」を記入することが求められるようになった。こうした一連の改革によって、個別の授業が、カリキュラムツリー及びマップにおける位置づけに応じて、学位授与の方針と連関する仕組みが整った格好になる。
 前回の当コラムで「PDCAを廻すな!」 と述べたときにも記したように、大学執行部に属する者として、このような仕組みを導入し、推進する側に身を置いていることは重々承知しているし、それが一定の効果を持ちうるものであることを完全に否定しようとは思わない。しかし、仮に大学のあらゆる授業が、何らかの測定しうる「到達目標」の達成に向けた場となり、その集合体に対して学位が授与されることになったとしたら、大学はどれほど面白くない場に成り果ててしまうことだろう。
 もちろん、教員の多くは、授業を通じて、あらかじめ定めておいた「到達目標」なるものを受講生が粛々と達成することだけを望んでいるわけではないだろう。むしろ、学生が授業から何らかのインスピレーションを(場合によっては勝手に)得て、みずからの知性を自発的に活性化させていくことをどこかで期待しているはずだ。そのような期待や、それに向けた仕掛けなくして、大学の授業が存在理由を持ちうるとは私にはとうてい思えない。
 確かに、そのような事態がどのようにしたら生じうるのか、あらかじめ予測し、何らかの形でプログラム化することは困難であろう。だが、だからといって、あらゆる授業を「到達目標」への目的論的な過程に還元する発想に与してよいはずがない。大学における授業という営みを別様に考えることが今こそ求められているのであり、そのための第一歩として有益であると思われるのは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)が、アルファベットごとのテーマによるインタヴュー番組『アベセデール』(1988-89年製作)で語っている授業観である。
 授業において5分か10分のインスピレーションの瞬間を得るためには、膨大な時間をかけて準備をしなければならないと言って「教師(Professeur)のP」の項目を開始するドゥルーズは、40年間におよぶ教師としての経験に基づきながら、大学という研究の場における授業のあり方をめぐって、次々と魅力的な視点を繰り出していく。
 たとえば、ドゥルーズは、授業という時空間は多種多様な出来事が生起する「立方体」のようなものであるという。私たちの文脈に置き換えれば、授業とはすなわち、決して目標にリニアに向かっていくものではないのだ。また、受講生の年齢や国籍がきわめて雑多であることも重要であるという。こうした不統一な集団相手に、そもそも単一の「到達目標」など設定し得ないだろう。ここから、学生それぞれに対して異なる瞬間に何らかの情動をもたらす「音楽」としての講義という発想が帰結する。さらに魅力的なのは、学生にとっての理解が時として遅れてやって来るという「遡及的な効果」という考え方である。ドゥルーズは比較的短いスパン(授業時間内や一週間単位)での遅れを想定しているが、年単位、さらには数十年のスパンで、まったく思いもよらない瞬間に授業の記憶が甦ることは誰もが身に覚えのある体験であろう。
 もちろん、これらが数十年前の、フランス特有の講義形態を前提とした着想であることには留意しなければならない。しかし、ここには少なくとも、「到達目標」という言葉に集約されているような、授業を目標到達のための過程として矮小化する貧しい発想から抜け出すためのヒントが詰まっているのではあるまいか。


ジル・ドゥルーズの『アベセデール』(角川学芸出版刊)
ジル・ドゥルーズの『アベセデール』(角川学芸出版刊)