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【執行部リレーコラム】PDCAを廻すな!

2017.06.06

学長補佐 堀 潤之
 昨今の高等教育の現場において盛んに言い立てられていることのひとつに、PDCAサイクルを廻すという言葉がある。曰く、学長のリーダーシップの下、全学レベル、学部等の部局レベル、個々の授業等の個人レベルでPDCAサイクルを相互に連関させつつ円滑に廻さなければならない、と。なるほど、教学マネジメントにおいて適切に計画・立案を行い、実施後にはしかるべく検証し、次なる計画・立案に繋げていくという循環には、いかなる反論も寄せ付けないような妥当性が備わっているかにみえる。
 大学執行部に属する者として、わたしもPDCAサイクルを廻すことに一定の意義を見出さないわけではない。しかし同時に、この言葉にはどうしても根本的な違和感を抱いてしまう。PDCAを廻せ廻せと喧しく言われると、つい、映画『モダン・タイムス』(1936)でベルトコンベアに流れる部品をひたすらスパナで廻し続けたあまり、精神に異常を来して周りのものを手当たり次第に廻し始めるチャップリンの姿を思い浮かべてしまう。PDCAを廻すこと、あるいは廻すふりをすることが自己目的化するという、チャップリンの狂ったダンスを嗤うに嗤えない状況は、実のところ至る所に生じているのではあるまいか。
 PDCAサイクルという言葉への違和感は、よく指摘されるように、この言葉が元来、製造業における品質管理の文脈で使われていたことにも起因する。高等教育の現場は、果たしてそうした文脈とのアナロジーによって動かせるものなのだろうか。
 さらに問題だと思われるのは、PDCAサイクルという概念が、ともすると予定調和的な目的論に沿って動かすことを前提としており、偶発事に開かれていないことである。あらかじめ設定した目的に向けて、粛々と事を運んでいくという作業には、どこか人間の知性に対する冒涜が伴っているように思えてならない。大学における教育という営みの究極的な使命が学生の知性を覚醒させ、いわゆる「アクティヴ・ラーナー」を育成することにあるのだとすれば、それはむしろ、プログラムを逸脱するような思いもかけないアクシデントの生起によってしか実現しえないのではないか。
 ある種の(敢えて言えば)「必要悪」としてPDCAサイクルを廻すことは必須なのであろう。だが、そのサイクルを攪乱するもの、そこから漏れ出るもの、そもそもサイクルを廻すという発想と齟齬をきたす出来事の生起に対する感性を失ってしまうとき、私たちは知らず知らずのうちにチャップリンの身振りを繰り返すことになるだろう。そういうわけで、わたしはPDCAという言葉を見るたびにこう言いたくなる誘惑に駆られるのだ。「PDCAを廻すな!」と。




チャップリンの『モダン・タイムス』(1936)の1シーン
チャップリンの『モダン・タイムス』(1936)の1シーン