大学執行部リレーコラム

「京の水脈シリーズ第3回 平安京と地下水」(楠見 晴重)

2009.11.19

 平安京の御所は、平安中期までは今の京都御所がある場所ではなく、船岡山にありました。御所に通じるメイン通り、すなわち朱雀大路は現在の千本通りに当たります。この御所は、丘の上にあったので、わき水はなく、敷地内で地下水を得るためにはかなり深く掘る必要があり、当時の技術では不可能だったと思われます。
 現在の京都御所は、平安京の時代は貴族や高級官僚の住む地域でした。この貴族や高級官僚が屋敷の庭に池を持つことは、当時のステータスシンボルであったようです。これらは寝殿造りの屋敷と大池泉式の庭園に代表され、紫式部日記絵巻、年中行事絵巻などに優雅な生活が描かれています。その池の水はわき水や涌泉、いわゆる地下水が供給源でした。
 当時の鴨川は今のような大きな川ではなく、小さな川が幾筋にも蛇行して流れていたものと推測されていますし、安定した水の供給源にはなりえなかったといわれています。現在の京都御所辺りの表層地質には、砂れき層が広く分布しているので、当時は1mも掘れば良質な地下水が簡単に得られたものと思われます。貴族や高級官僚は、屋敷の庭に池を中心として木々、岩などを置いて風情を楽しみ、それが発達して現在の日本庭園を形作っていったものと思われます。時には池に写る月を眺めたりして、秋の夜長を楽しんだりしていたのでしょう。これらは今に引き継がれ京の文化、ひいては日本の文化として発達していったものと思われます。
 天皇は、当初船岡山に御所を構えていましたが、貴族や高級官僚たちが屋敷の庭で優雅に遊ぶのをうらやましく思い、御所を今の場所に移したのではないかと勝手に想像しています。
 平安京の中心は今の千本通りでしたが、千本通りから西側が右京、東側が左京と名づけられ、千本通りが当時の繁華街であったものと思われます。右京、左京は今でもそう呼ばれていますが、現在の京都の繁華街は河原町、木屋町あるいは祇園と当時より左京のほうへ移っています。
 京都市内の表層地質分布は、堀川通り辺りから東側、東大路通りにかけて砂れき層の優勢な地層が分布しています。一方、現在の右京辺り、具体的には西大路通りから桂川辺りまでは、砂れき層よりも粘土層が優勢な地域が多く分布しており、浅い所からは良質な地下水を得ることが難しい地域です。このようなことが、京都の繁華街が左京に移っていった一つの理由ではないかと思います。
 特に平安京の水を守るために建立された下鴨神社、現在の京都御所、美しい庭園を有する二条城あるいは神泉苑は、浅い地層から良質な地下水が得られる同じ砂れき層の上に並んで建てられており、これが単なる偶然なのか、あるいは平安時代の人々が地下水を意識して決めたのか、一つのミステリーと思っているのは私だけでしょうか。

二条城二の丸庭園
二条城二の丸庭園