Kansai Univ
 

研究員ニュージーランド出張

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2月6日:ワイタンギ記念日

                 主幹 安武 真隆

ニュージーランド出張の直前、2月6日に、現地では国民の祝日、ワイタンギ条約締結の日を迎えていた。ワイタンギ条約は、1840年に英国君主と先住民マオリとの間で締結された、ニュージーランド初の条約とされる。これによりマオリは、英国への自らの帰属を容認することを条件に、自らが持つ土地や文化の継承を保証されることとなったのである。

この条約の背景には、ニュージーランドへの貿易と入植を目的としたフランス人等による土地の購入があった。これを警戒した英国政府は、北島の34のマオリの首長を味方につけ、独立宣言を行い、ニュージーランドが英国の法のもとにあることを確定させようとした。しかし、独立宣言後も「不正な」土地の売買が横行したため、先住民族のマオリの首長と条約を締結するという形式を取って、ニュージーランドの主権の所在を明確化し、英国の権益を確保しようとしたのである。その結果、1840年2月6日に43の北島の首長が条約に署名し、その後8ヶ月の間に、500以上の首長から署名を獲得することに成功したとされる。

条約締結後のマオリの境遇は、英国とフランス等との間の権益争いに利用された挙句、見捨てられたとの印象を抱かせる。そもそもワイタンギ条約は、英語で書かれた条約をマオリ語で忠実に表現できなかったこともあり、例えば英語版ではマオリが権力を英国君主に譲る、とあるのに対し、マオリ語版では権力を共有する、とされていた。またマオリに保証されたはずの権利のほとんどは、その後無視され、マオリは多くの土地を失ってしまった。その結果、マオリによる反乱も30年間続いたが、結局は鎮圧された。この条約の精神に照らせば、今もなお、ニュージーランドでは、ヨーロッパ系の人々が(本来の)マオリの土地を占領し、マオリに対して部分的な自治、あるいは文化的尊重を施しているに過ぎない、と言えるのかもしれない。

ワイタンギ条約締結後の抵抗運動から今日に至るまで、170年の歳月が流れた。その間にヨーロッパからの移民が増加し、人口の約80%がヨーロッパ系、先住民マオリは約15%、近年増加しつつあるのがアジア系(9%を超える)である。議会では、海岸の波打ち際や領海内の大陸棚の国有化に対し、マオリが先祖から受け継いできたものと猛反発し、固有の権利を主張して結成されたマオリ党が5議席(獲得議席の割合2%)を占めているに過ぎない。興味深いことに、アジア系移民排斥や刑罰の厳格化を唱える最右派政党、ニュージーランド・ファースト党(7議席)のウインストン・ピータース党首は、マオリ系であるという。アジア系新移民に対しては、マオリも既得権を主張する側に回っているのであろうか。

写真説明:滞在先のワイカト大学では新しい校舎が完成し、落成式にはマオリの長老が招かれ、祈りと伝統的なマオリの歌が捧げられた。写真はそのホールに設置されたマオリの彫刻を用いたレリーフ。「ティキ」を思わせる4つの像、東西南北の四方向からの風に乗って到来した全ての人々に対する歓迎の意とともに、地球の四方をも意味するという。

 


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