「マイノリティ」を手がかりに地球市民社会のあり方・かたち(Constitution)を考える
センター長・孝忠延夫
「この国のかたち(Constitution)」という表現は、かなり一般的になってきました。しかし、これからのグローバルな「国家と社会」のあり方・かたちを表現するときConstitutionという表現はほとんど使われていないようです。これまでの国際社会の形成、国民国家(Nation-State)の成立と展開、国民統合にかかわる立憲主義や基本的人権の保障がその「光」の部分だとすれば、「マイノリティ問題」はその「陰」(あるいは「闇」)の部分だったといっていいのかもしれません。
ある属性をもつとされる人々を「マイノリティ」と呼ぶとき、複数の属性の中から1つをとりあげて「マイノリティ」と呼ぶとき、人々は「マイノリティとなる」ということができます。このとき、当該属性をとりあげること、それを個人の支配的アイデンティティとすること(あるいは「選びとる」こと)の功罪も考えなければなりません。また、そこで創られたマイノリティのアイデンティティなるものも、その内部の差異を隠蔽・抑圧する同化権力として機能するかもしれません。
マイノリティとは、国家による他者化と差異化のなかで「縁辺という苦悩の場」に集められた人々であるにとどまらず、自ら「選びとったものだ」とするときでも、自らがマイノリティであると「認識することのできない」あるいは「語ることのできない」マイノリティの問題を捨象してしまってはならないでしょう。
本研究プロジェクトは、これまで10年近くにわたって続けられてきた関西大学法学研究所の「アジア法文化」研究班、「マイノリティと法」研究班(科研Bに採択)などの共同研究の成果をふまえておこなわれるものです(その研究構想の概要については、本ホームページーを参照してください)。私自身、これらの共同研究をコーディネートし、国内外の多くの研究者と交流する中で「マイノリティと法」の問題についての考えもかなり変わってきました(深まってきたというべきところなのでしょうが)。
国民国家(Nation-State)は、人々が創りだしたものですから、人々によって変えられていくものでしょう。どう変わるのかを考えるときの1つの(そして重要な)キーワードが「マイノリティ」だと思います。国民国家イデオロギーと一体となっている規範と価値秩序を脱構築していく作業の1つがマイノリティ研究だと言っていいのかもしれません。
「国民(Nation)」から「地球市民(Global Citizens)」へ、そして「国家(State)」から「状態(State)」へという動きのなかで、そのあり方・かたち(Constitution)をめぐる論議に重要かつ不可欠なものとして「マイノリティ」を考えているところです。