■人権問題研究室室報第19号(1997年6月発行)

公開シンポジウム『在日朝鮮人文学の新地平』

吉田永宏(文学部教授)

 人権問題研究室主催になる企開シンポジウム『在日朝鮮人文字の新地平』が、1996年10月18日(金)午後1時より、本学総合図書館3階ホールにおいて行われた。
 パネリストは作家・磯貝治良、評論家・林浩二、作家・元秀一の3名で、司会は当研究室研究員の吉田永宏が当った(以下いずれも敬称略)。
 磯貝治良は『始源の光一在日朝鮮人文学論』(創樹社)、『戦後日本人文学のなかの朝鮮韓国』(大和書房)の論考の他に、『イルボネチャンビョク』(風琳堂)、『在日疾風純情伝』(同上)の小説があり、在日朝鮮人文学との関わりが深い。林浩二は『在日朝鮮人日本語文学論』(新幹社)、『子猿集』(埼玉文学学校出版部)の他に、『金泰生と在日朝鮮人文学の戦後』(『さまざまな戦後・第一集』日本経済評論社)、『民族を背負うことなく−柳美里「石に泳ぐ魚」の段階』(『新日本文学』'95年8月)、『「金ボタンの朴」と戦後在日朝鮮人文学の終焉』(『ウリ生活』12号 '95年8月)、『植民地支配の呪縛−敗戦後初期在日朝鮮人による日本語文学』(『愚行』10号 '96年11月)などの諸論考を通じて、在日朝鮮人文学についての積極的な発言を続けている。元秀一は『猪飼野物語』(草風館)、『AV・オデッセイ』(新幹社)などの作品で知られる在日朝鮮人作家で、「元秀一のように日本の中にある朝鮮、大阪の猪飼野をみずからの文学的故郷として、日本でも朝鮮でもない(その両方でもあり得る)文化的、言語的な混合、混沌をむしろ積極的に志向しているケースも見られる」(川村湊『在日作家と日本文学』)と評されている表現者である。なお、吉田永宏には『<在日朝鮮人文字>論の前提』(『書評』95号 '91年4月)がある。
 川村湊(岩波新書『戦後文学を問う』)は<在日朝鮮文学>について、「まず在日朝鮮人(在日コリアン)が、日本語で、民族的アイデンティティの危機の中での彼らの苦悩と抵抗を、表現した文学」というふうに一般的にはまとめることができるだろうと書いているが、形の上からのみ定義しても、1.日本に半永久的に居住し(或いは、日本に生まれ、育ち、生活している)、日本語を社会生活の日常語とする在日朝鮮人が、2.日本人を主たる読者対象として、3.日本語によって表現した<文学>ということになる、極めて特殊な文学と言う他はないものである。
 磯貝治良が、一回目の発言において、「<在日朝鮮人文学>というとき、私の理解では、日帝時代、要するに戦前の日本に在住した朝鮮人が書いた文学、これは<在日朝鮮人文学>という現在の位置から見るジャンルの中に入れ難いのではないか。植民地支配という或る強制された状況の下で日本語で書き、発表した、そういうものとは区切りたい」と述べ、「戦後−これはもちろん日帝時代の所産として日本に在住する朝鮮人が日本語で書き、或いは日本社会の中で日本語で書かなければ受け入れられない、そういうマイナスの条件があって、そして日本語で書くという側面もある。しかし、それは戦後ごく初期の頃で、1960年代に入れば在日朝鮮人が自己表現の手段として日本語を自ら選択し、日本語の文学を確立してきた、そういう主体的な選択としてそれはなされた」との問題提起を行った。その上で、磯貝治良は、在日朝鮮人が日本での生活を「仮の人生・生活」と位置づけていた1950年代終わり頃までを在日朝鮮人文字の第一期と呼び、その時期の作品は、日本帝国主義を経験した作家たちがそのことを主たる題材・テーマとして書き、解放後の祖国への帰属意識や祖国の再建への思いを文学の主題に掲げていた、とする。60年代の後半になると定住化の芽生えがあり、日本という土地が「仮の土地」ではなくなり、70年代になると本国への帰属意識よりも、在日を如何に心地よく生きるかが求められ、日本に定住することの中で人権や主体性が確立されて行く。「民族」を一つのキイワードとして、それとの葛藤の中で自我の問題や家の問題が追求されたこの第二期が文学営為としても最も活発であったと見る。
 最近の若い世代の作家に認められる質的変化について、林浩二は「帰属意識を持つことによって安定感を得るのに対し、何にも帰属しないんだとの方向性もある」として、柳美里の作品には「朝鮮人としてのアイデンティティを最初から考えないような方向で書く場合が多い」と述べた上で、もちろん朝鮮は出てくるし、韓国を舞台にした場面も多くあるが、それに対する直接的な反応よりも、家族の崩壊の問題などの方が多く主題として扱われ、そしてそういう流れは在日朝鮮人作家の初期から既にあったのではないかと指摘する。この若い世代の傾向について磯貝治良は「独断的な見方」と断わりつつ、在日朝鮮人文学の呼称より「在日文学」の呼称の方が相応しいと言う。李良枝より後に出てきた人たちは、自分の父母のルーツを朝鮮半島に持ってはいるが、文学の主題が特に朝鮮ということではなく、よく言えば自由に、悪く言えば日本社会或いは日本の価値観に同質化し、文学的には日本の文学に同質化してきており、「在日朝鮮人文字」の概念で括るには無理があるというわけである。
 ソウルで開かれた「ハンミンジョックムナギンテフェ」(10月2日〜6日)に参加した元秀一は、「ハンミンジョック」を漢字で書けば「韓民族」となって意味合いが非常に小さい範囲に収歛してしまうが故に漢字ではなく敢てハングルで「ハン」と表記せざるを得ないことを紹介した上で、世界各地で活動中のハン民族の文学者が一堂に会した折の体験として矢張り海を越えないと自分自身をもう一度見詰めることができないと語った。更に元秀一は、自分たち「在日」にとって日本語に対する思いは、愛であると同時に憎悪であって分裂していると述べ、「実際、僕ら『在日』においても、日本語で書く−僕は日本語でしか書けませんけれども、先ほど話がありましたように、テーマが『在日』というものを取っ払った内容になると、僕はそういうものは書けない」、「何のこだわりもなく書ける『在日文学』と言われている人たちは、そういう生理で書けている人たち」であると指摘した。
 なお、変質の問題を含んだところの在日朝鮮人文学の展望についても言及したこのシンポジウムは、当研究室より刊行の『人権問題研究室公開講座 1996』にその全文が収められているので、是非ご一読願いたい。
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宇和島調査報告

源 淳子(委嘱研究員)

 建物を入るとすぐに、男根のオンパレード。二階へ上がったらチベットを始めインド、ネパール、インドネシア、タイなどの外国の男根と男女性交像。これで終わりかと思うと三階がある。そこは日本の江戸時代の春画。所狭しと天井にまで展示されている。いちおうの分類があるようだが、とにかく多種多様の数え切れない性、性、性‥‥‥。と説明したら喜ぶのはやはり好事家の男か。場所は、宇和島多賀神社の凸凹(でこぼこ)神堂である。
 女性問題研究班として計画的に調査の対象に宇和島があったわけではないことをまずお断りして、このたびの研究班の調査報告を行いたい。宇和島の多賀神社内の凸凹神堂に目的地が決定したのは、簡単な理由である。その神堂は「性」に関係ある多種多様なものを集めて展示していることで知る人ぞ知る神社である。以前から名前を聞いたり、私の友人が行ってみてきた話などで興味をもっていた。ただ一人でわざわざ行くには、研究の対象ではないと思っていたので、今回の調査旅行に、その神社を提案したら実現したという次第である。
 3月25日出発で1泊2日の日程だった。多賀神社は伊弉諾尊を主神に11柱を祀る古い神社である。神功皇后摂政18(269)年の鎮座とされ、古来より延命栄寿、治病、子授け、健康の霊験あらたかな神社とされている。当主は久保凸凹丸(あいまる)氏である。多賀神社で性にかんする収集が始められたのは、父の久保盛丸氏である。「性は宗教なり、哲学なり、性は道徳なり、科学なり、性は生命なり、人生なり」を悟って収集に乗り出したという。日本でも古来より性器信仰は盛んだった。生殖と女性の性が深い関係にあるとみなされていたからである。だからもともとは女性器信仰から始まり、次第に男根信仰へ、そして男女混合信仰へと変化する。それにしては、女性器信仰のものより圧倒的に男根に関するものが多く、そして、男性中心の性交を描いたものが多かった。そのもっとも衝撃的な展示が、アフリカにおける割礼の写真だった。少女のクリトリスを切り取る写真は、正視するにはあまりに残酷なものだった。久保氏は、先代が収集したのは1パーセントで、現在収集されている数万点は自分の業績であることを強調し、「一分も惜しまず」に収集作業に精を出してきたという。
 私の感想は、なんともいえぬ不快な印象を免れないそれらは、人類の業、男根中心のセクシュアリティの罪業と思えた。だが、その収集物を誇りに思う当主の考え方には、男根中心の性に批判精神なぞまったくない。彼自身、男根中心のセクシュアリティの持ち主なのだろう。あれだけの数を集めているのだから、フェミニズムの視点をもつ人が管理すれば、凸凹神堂は私の格好の研究対象になるのに残念である。もっともそうなれば凸凹神堂への拝観客が激減する‥‥‥かもしれない。
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『森杉夫収集史料目録』の完成

吉田徳夫(法学部教授)

 当人権問題研究室は、1992年に森明彦氏から同氏の御尊父であられる故森杉夫氏が収集された膨大な近世史料の寄贈を受けた。翌年から、私を含め森明彦氏と、藤原有和・槇本淑子・久保岳也の各氏の御尽力を得て、史料の整理を開始し、やっと今年の春に『森杉夫氏収集史料目録』を完成させることが出来た。人権問題研究室に同目録を設置したことの報告を行い、それと共に諸氏の労に感謝の意を表しておきたい。
 寄贈を受けた史料は、史料のコピー・写真(フィルムを含む)が中心であり、目録に掲げた点数は約7,600点余り、ダンボール箱にして約170箱になる。整理を始めた当初は、どれ程の時間を要するか見当も付かず、手探り状態から出発した。書籍類と異なり、文書・記録であるため整理自体に思いの外に多くの時間と労力を要した。整理に要した時間は足掛け5年であったが、長いようでもあり短いようでもあった。言い訳めくが、完全な目録を作成するのは困難であり、また再点検の作業も十分には行えなかった。徐々に完成度の高い目録にしたいと思っている。
 森家から寄贈を受けたときの約束は、言うまでもなく史料を死蔵するのではなく、研究用に公開して欲しいと言うことであった。保管責任のみならず、公開の責任を人権問題研究室は背負っている。しかし、この史料群の中には被差別部落の史料が多く含まれており、無制限に公開するというわけにも行かない。また、各史料の元の所蔵者との了承を抜きに公開あるいは利用を勝手に勧めるというわけにも行かない。
 色々と制約はあるにしても、当人権問題研究室は出来るだけ利用者の便宜を考えたい。また、当研究室、特に部落問題研究班を中心にして、この史料群を用いて研究を進めたいと思う。
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新研究員紹介

姜 博 久(かん・ぱっく)(委嘱研究員)

 この度、前任者の愼英弘氏の後任として障害者問題研究班の委嘱研究員の末席に加えていただきました。'84年に関西大学を卒業して13年、思っても見ないことの成り行きに自分でも驚いています。大学生活の中で、遅ればせながら、自分が障害者であり、在日韓国人であることを自覚しはじめたことを今更のように思い出しながら、因縁めいたものを感じずにはいられません。
 障害者問題は、いまだに「福祉」の視点に重点が置かれて語られることが多く、「人権」の面から捉えられることはまだまだ少ない現状にあると思います。歴史研究を見ても明らかなように、それは、いまだに部落問題はもちろん、女性・定住外国人問題の研究の分厚さと進展に遥かに及んでいません。学生時代から障害者の歴史研究に関心を寄せてきた私としては、それが障害者問題の「人権」としての採り上げられ方の現状を物語っているのではないかと感じています。障害者の人権をないがしろにした事件が相次いでいる中、「人権」を抜きにした「福祉」はあり得ないことを痛感している今日この頃です。
 乏しい知見しか持ち合わせていない自分に、どれだけのことができるのか、心許ない限りですが、障害者の市民運動の中で得たものを活かしながら、障害者の人権問題を学問的に少しでも前進させていきたいと思っています。
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書 評

田宮 武 著
『テレビ報道論』
(明石書店、1997年3月刊)

住田一郎(委嘱研究員)

 本書は、「はじめに」、第1部「テレビジャーナリズムに期待する」、第2部「テレビ報道に対する視聴者の反応」から編まれている。著者はテレビメディアの社会的役割として「テレビは時代批判の精神と真実追求の姿勢を持ったジャーナリズムであってほしいと願うし、人間の生き方を解放するような文化創造のメディアであってほしいと期待している」「テレビは娯楽メディアでもあることを認めたうえで、なお言論・報道機関なのだという原点を忘れないで、その原則を生かしていくような新しい試みを続けてほしい」と主張する。第1部は、この立場からすでに書き上げられ発表された、「天皇報道とマスコミ」「放送の自由と知る権利」等八本の文章で構成される。本書における原理論である。第2部には、著書の講義受講生へのテレビ視聴アンケート調査から、学生のレポートを整理し丹念に紹介されている。日頃ほとんどテレビを見ない私にも、若者の意識の一端を伺い知るうえで実に興味深い内容になっている。
 この書評で本書の内容すべてを紹介することはできない。そこで「2 実践主義者としての記者をめざして−『反差別メディア論』を読む」について若干の意見を述べることで責任を果たしたい。著者である前毎日新聞記者、現花園大学教授八木晃介は新聞社が部落問題を報道することに消極的な原因として三点あげる。その第一に彼は「糾弾への恐怖」を、つまり、「差別記事」への当然な糾弾に対し「新聞社は自らの差別性とその差別の深刻さに想像力を及ぼすことなく、逆に、被差別者からの抗議、糾弾を怖れ、うとましく考える」からであると指摘する。彼の指摘が間違っているわけではないだろう。しかし、同和対策特別措置法施行二八年後の今日、この指摘だけでこと足りるのだろうか。
 私の友人岐阜大学藤田敬一は最近部落解放同盟の活動家に次のような問いを発する。「あなた方は水平社以来七○年の歴史を通じて、どれほど部落外の友人を作りましたか」と。この問いは、差別・被差別、加害者・被害者といった二項対立思考<立場の絶対化>を人と人との関係の根っ子に置くかぎり真の友情は育たないとの考えからである。作家金石範がかって関西大学での講演で語った「在日韓国・朝鮮人と日本人との連帯における最大のネックは日本人による日帝時代に基づく<贖罪論>である。この<贖罪論>に在日韓国・朝鮮人の我々が胡座をかく間は真の連帯は築けない」にも通ずる藤田の指摘であった。
 映画監督小栗康平はエッセイ「クローズアップ考」で、助監督時代に画面一杯に大写しにするクローズアップ手法は同時に他の要素をすべて隠してしまう手法でもあると教えられ、これまでの部落問題の扱い方もクローズアップに属してはいなかったかと指摘する。以後、彼は大切な場面は<引き>で撮ると語っている。<立場の絶対化><贖罪論>それに<クローズアップ手法>の呪縛から、双方ともに一日も早く解き放たれる必要があるのではなかろうか。
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書 評

金 英 達 著
『創氏改名の研究』
(未来社、1997年2月刊)

梁 永 厚(委嘱研究員)

 日本は日中戦争から太平洋戦争へと侵略を広げる過程で、植民地朝鮮においては朝鮮人にたいする「皇民化政策」を敢行した。同政策は、「国体明徴」即ち皇道精神(天皇への忠誠精神)の注入により「内鮮一体」の促進をはかるものであった。その骨格を列挙すると、敬神観念の強化を期して一面(村)に一神社の造営、各戸に神棚の設置。「皇国臣民の誓詞」の制定、内鮮通婚(血の一体化)の促進、朝鮮語の使用禁止、「創氏改名」法制の施行、志願兵制から徴兵制の制定等々であった。
 本書は「皇民化政策」中の「創氏改名」に関するところを、韓国へ行き原資料の洗い直しと、「創氏改名」の強制に抗議死された人たちの遺族にも会うなど、さまざまな角度から丹念にまとめあげた労作である。
 内容は、序章に用語の問題をとりあげ、「姓」は朝鮮古来からの家門の称であり、「氏」は日本の家の称である、と本論への導入をしている。そして、第1部に創氏改名の法制的メカニズムとのその施行経過について、原資料に基づいて客観的な分析の叙述がなされている。 とりわけこの法制度は、朝鮮人の「皇民化」程度をはかる踏絵的な設定創氏と、踏絵をしない場合は自動的に「姓」を「氏」に変えるという法定創氏という二段構えになっていて、創氏を届出なくとも「姓」から「氏」に変えるという巧妙な構成の法制で、1940(昭和15)年「皇紀二千六百年」の「紀元節」(現在の建国記念日)から実施を始め、同年8月1日に終るというという時限立法であった。
 さらに本書は、設定創氏・踏絵に従わされた朝鮮人80.3%で、残りの19.7%は法定創氏という、「創氏」および「改名」の統計をあげ、こうした「実績」をあげるために朝鮮総督府が行った宣伝の概観および、「創氏改名」の強制に動員された親日分子の動向記事等を原資料に基づき詳細にまとめている。そして著者は「植民地時代を生きた大部分の朝鮮人にとって、創氏改名は自ら加担したか屈服したかの経験を持つ悪夢の出来事であり、あまり触れられたくない事がらである」と、いまの政界のリーダーの一人の感懐を引き、その傷の深さを触れている。
 また朝鮮総督府の『思想彙報』を主材に、創氏改名をめぐる抵抗と弾圧を詳述し、聞き取りおよび、遺族より得た資料を紹介している。この紹介資料の中には感動的な抵抗の文学といえる内容のものが多い。さらに解放後、南北の臨時的行政機関が、「創氏改名」についてとった措置の紹介ならびに、在日朝鮮人における「創氏改名」処理の不徹底(今日も通名として使用)について、日本政府の措置経過をあげ、その処理責任を問うている。
 第二部は、原地調査と原資料を踏まえた創氏改名のエピソード集である。新聞小説のフィクションが歴史的資料として使われている紹介などは面白くもあるが、歴史を書く姿勢の問題について考えさせられる。第三部は、1940年当時の朝鮮語雑誌『女性』に載った「氏制度」の解説の訳出紹介である。
 本書は、韓国や北朝鮮の近代史研究者ならびに日本の植民地史研究者が、これまで掘り下げずにきた部分に切り込んだ開拓的な好著である。そして研究者はもちろん、植民地統治の「正統化論」を性こりもなく、くりかえしている日本の政治家の一部にも読んで欲しい書物である。
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