■人権問題研究室室報第30号
 (2002年12月発行)

韓国の「日本語世代」
   ――訪韓・聞き取り調査レポート――

梁 永 厚(委嘱研究員)

   韓国の近現代社会を担ってきた世代は、言葉とその書字体系の習得に即 して、「漢字世代」「日本語世代」「ハングル世代」と、時系列的に分け られている。とくに「日本語世代」は、「日韓併合」後に生まれ、自分た ちの国は日本であり、国語は日本語であるとする植民地教育を受け、さら に歴史が一転すると、蔑ろにされていた朝鮮語を母国語として、改めて学 ばざるを得なかった世代である。
 そもそも植民地教育には、イギリス、フランス型の支配と被支配の関係 を明確にする教育と、日本型の支配と被支配の関係の一体化をはかる教育 がある。後者の場合、明治政府が内国植民地とした北海道のアイヌに対す る同化教育として始まり、琉球処分後の沖縄の教育への適用を経て、海外 植民地の教育へと移出された。
 そして朝鮮では「(天皇に)忠良なる国民を育成することを本義とし ……とくに国民たる性格を涵養し、国語を普及することを目的とする」 (「朝鮮教育令」1911年施行)と定め、実際には「日朝同祖論」 「日朝両語同系論」などの「学説」とか、天皇の「慈愛」をいう「一視同 仁」や「内鮮一体」といった標語をかかげ、さらに「皇国臣民の誓詞」の 斉唱、「宮城遙拜」「神社参拝」などの儀礼的行事と、「国語常用」や 「創氏改名」の強制をともなった教育が行なわれた。
 その同化教育を受けた「日本語世代」は、金大中大統領など現役の人も 僅かにいるが、総体的には既に第一線から退いている。よって、この世代 の人びとは、いま過去の回顧や未来への期待を、いろいろとめぐらしてい ると思える。それで本研究室人種・民族問題研究班の鳥井、熊谷、梁の三 人は、「日本語世代」からの聞き取りと、関連資料収集のため韓国へ行か せていただいた。
 さて聞き取りであるが、ソウルではKBS放送のシンさんにセットして いただき、漢学者のGさんからの聞き取りと、パコダ公園に集まっている 老人グループ(9名)からの聞き取りをした。さらに光州へ移動し、本学 大学院出身のヂョンさんにセットしていただき元教育関係者(5名)の集 合的な聞き取りを行なった。そのあらましを次に記す。
 ――小学校時代について、入学のとき面接試験があり、先生から足し算
景福宮
景福宮            
、引き算を聞かれた。一年生の国語読本の最初のページは「ヒノマルノハ タ……」であった。担任先生も朝礼訓話をする校長先生も、日本語でしや べるのでなにがなにかさっぱりわからなかった。日本語は自分たちの言葉 でないことを知っていた。「国語常用」では、後ろから脅かすと「アヤ」 「オムマヤ」と朝鮮語が必ず出るので、その方法で担任の先生の印章が押 してある罰札(小さい紙札)を取ったりした。罰札がなくられると体罰が あった。体罰をよく加える先生を集団で肥溜めに投げこんだことがある。 「日本語ができないと、出世ができないぞ」という威しが、しょっちゆう あった。
元西大門刑務所
元西大門刑務所            
 ――中学校時代について私立と公立にはちがいがあった。私立では秘か に朝鮮語を使い合った。罰札などもなかった。公立では「国語常用」が厳 しく、上級生が使わないから、と学校当局に訴え、上級生が大量に退学処 分されたこともあった。その学年の人が、同窓会会員に少ないこともあっ て慙愧にたえない。広島高師出身の熱心な校長がいた。校長でありながら 数学の時間を16時間も担当し、評価も毎時きちんとしてくれた。
旧韓国で最初の石造建物(徳寿宮内)
旧韓国で最初の石造建物(徳寿宮内)            
 ――解放後のこと 学校の先生は同胞ばかりになったが、「今後は出世 したければ英語をよく学べ」という先生がいた。改めてハングルを習い、 韓国語による文章の書き方を学ばなければならなかった。それは日本語で まず文章を書き、韓国語に翻訳するといった段階、頭の中で考えた日本語 の文章を韓国語に置きかえて書く段階、そして、ようやく韓国語で考え、 韓国語で文章を書けるようになった。5年ほどはかかったと思う。小・中 の教師になっても、初めは韓国語が不十分であったが、40年余りを勤め るなかで、いつの間にか韓国語で考えるところへ変っていた。
 ――総括的に教育は学校ごとに同じようであって同じでない。公立学校 に通った人は公立学校の教育しか知らず、私立学校に通った人は私立学校 の教育しか知らない。
独立門
独立門            
 教育とは教育者と被教育者の関係が問題となる。植民地期の朝鮮と日本 との関係は「善」なものではなく、侵略的なものであり、かつ対等互恵で なく一方的なものであった。こうした関係のうえで生みだされたものは、 なんであれ喜ばしいものはなく、悲劇的なものにならざるを得ない。
 植民地期の日本語教育には、表と裏がある。表をみると方法も結果も相 当なもので成功したといえる。たとえば長くない期間で日本語を相当に広 めた。とはいえ方法は強制であり没人権であった。強制と没人権による 「成功」の裏をみると、学友関係の毀損、家庭におけるコミュニケーショ ン摩擦を余儀なくするなど悲劇であった。
光州民主運動記念公園
      光州民主運動記念公園            
 人権を抑圧した帝国主義の日本が行った教育は「ひと」を否定し、幸福を 奪った教育である。しかし日本人の立場からするとちがった見方がでてく る。よって、いくら客観的にみるといっても、同じ見方にはならない。ま た政治の立場で教育をみるのと、教育の立場で政治をみるのとは答えもち がってくる。だが、近代日本の教育の罪の一つに政治による教育の支配が ある。……
 今回は聞き取りのほかに、韓国の中国学センター理事長の梁(建国大学 教授 中国史)さんから、在韓華橋事情を聞く懇談、光州、釜山の学生運動 や民主化運動の記念展示館の参観、本学の学生が朝鮮語の現地研修によく 行く釜山の東亜大学の訪問ならびに、釜山にある国立公文書保管所の資料 検索などもしてきた。そして報告論文は熊谷が、華僑については鳥井が、 本研究室紀要に書くことになっている。また公文書保管所で収集した新資 料については、熊谷が解題をつけて本学出版部から刊行する予定であ る。
釜山民主運動記念公園にて
釜山民主 運動記念公園にて            
        
△ 頁頭に戻る
 

石垣島・竹富島で考えたこと

田中欣和(文学部教授)

 人権問題研究室の四つの班を横断するプロジェクトとして「人権問題と しての沖縄」を学ぼうとするグループができて数年になる。昨年までは一 緒に行動して共通の知見、共通の人脈、共通の資料源泉を作りだしたとい う段階であったが、もうそれは卒業して各自のねらいで動きだそうという ことになった。他の研究員の動きは最後にかんたんに紹介することにして 、ここでは私が3月に石垣島と竹富島を訪れた時に考えたことを雑感風に 報告しようと思う。
       行く前の問題意識
 復帰直前の’72年3月に当時の教育学科の学生たちと沖縄へ行ったの をはじめとして私はもう二十何回か沖縄へ行っているが、本島以外では宮 古島に一度教組の講演に招かれたことがあるだけであった。ほとんどの場 合学生たちのゼミ旅行であるとか、近年の人権研グルーブの調査旅行であ っても、一番土地カンがあるということで、修学旅行のガイドのような役 割になってしまう。A基地を見渡すにはあの丘の上、B基地ならこのマン ションの屋上からといった雑知識は蓄積しているので、それなりのお役に 立つつもりではいるが、自分の知っている所ヘ案内することが多くて、新 しいスポットを増やすことにならない。一口に沖縄といっても距離で測れ ばむやみに広い県である。島と島の関係も歴史的にはいろいろたいへんな ことがある。本島での見聞だけで沖縄を考えているとまちがいそうだとい う感じをずっと持っていた。これが八重山に行こうと思った第一の理由で ある。
 第二には、新学習指導要領に関る論争とつながりがある。私は「生きる 力」「総合的学習」「ゆとり」などをキーワードとする新要領は方向自体 として批判すべきではない、むしろそれを現実化するには前提となる人的 ・物的諸条件が財政的に保障されていないことを批判すべきであるという 立場であるが、今は「総合的学習」のために教科の時間を削るのは「教育 非武装化」であり、そこで引きおこされる「学力低下」は国家的災厄とな るという主張が左右を超えて強力に発信されている。「学力低下」批判の 中心になっている教育学者たちは首都圏の現状を考える素材にしているよ うなのだが、中学段階で約四分の一の生徒が私立へ行っている東京の材料 で全日本の教育を論ずるのは危険なことのはずである。沖縄では、特に八 重山でならどう考えられているのか、そこをきき取りして歩きたいと考え た訳である。
 第三の理由は池上永一氏の小説『風車祭』(カジマヤー、97歳のお祝 い)と『バガジマーノパナス』(「わが島の話」の意)を読んだことから である。おおらかな島の文化が基調になった小説を生みだした基盤を実感 してみたかった。
 往きに持っていた問題意識は以上であるが、持って帰れた問題は、それ らを超えたものとなった。
        「学力低下」論争に遠い石垣
 かねがね沖縄での郷土教育に関心があった。高校で使われている副読本 を見ても、沖縄史も、沖縄文学(古典編と近・現代編の2冊)も非常に高 度のものである。音楽にしても、たいていの家に三線(サンシン)がある 所であるから、それを活かした教育活動があるはずだ。とはいえ高校・大 学の受験の問題は他県と同様にあるはずだから「学力低下」論争は起って いるであろう。何しろかって「学力」が知事選の焦点になったこともあっ たのだから……と行く前に想定していたことはこのようなものであった。
 ところがである。石垣市教委の太田指導主事にお会いしたのをはじめ、 三つの学校(石垣小、石垣中、大浜中)をまわったのだが、「新指導要領 をめぐる議論がありますが……」と切り出しても、多くは「ハア?」とい う感じなのだ。受験をめぐって保護者から不安や批判の声は出ませんかと きいても「そういうことは聞いたことがありません。」という。ただ、大 浜中の先生は「保護者からは言われていませんが、私たち教師の方では考 えねばならないことと思っています。」と言ってられた。大阪・兵庫あた りと事情がちがうのは、石垣市全体で島外の高校へ行くのは毎年三十名程 度、それもスポーツなど部活動関係が多く、大学進学に有利ということを 意識してという生徒はごく少ないということからであると思われる。大浜 中の女生徒で女でも硬式野球をやれる高校へと言って、自分でインターネ ットで探して、ほんとうにそこへ進学した例があるという。仲々たくまし い。全体として小・中学校ともすでに総合的学習をやってきた所は郷土学 習を軸とするのがほとんどであるらしい。行事等でもそれが活かされ、大 浜中では郷土史中の英雄オヤケアカハチ(1500年に王府軍と闘った。 かって映画化されたこともある)をテーマとした演劇で生徒は大いにノッ タという。三線の学習に学年ぐるみで取組む学校もある。総合的学習では 地域の人材に協力してもらうことは、本土でもかなりすすめられているが 、石垣では例えば三線の業界の奨励策と学校の取組みとのねらいが合致す るなどのこともあり、一本釣り的協力依頼よりも大きな波にのって地域と 学校の関係づくりができているように感じた。
       御嶽(ウタキ)と学校と地域
 今回、予期しなかったところでヒントをいただいたのは、まわった三つ の学校が三つともウタキのそばにあったことからである。ウタキとは本土 の氏神、村の鎮守に当たるといえよう。たいていは大きな樹とか大きな岩 があるが、ヨリシロに当るものであろう。神主さんに当たるのがツカサで 、女性である。地元の女性しか入れないウタキもあるという。霊能力者と されるユタも女性だし、沖縄の宗教的伝統はジェンダー論からも興味深い ものがあるが、それはさておき三校ともウタキのそばというのは偶然とは 思えない。地域社会の聖なる公共空間と「学校」というもののイメージが 深く結びつくのではないか。学校関係できくと「偶然でしょう」という人 もいれば、「そういうこともあったでしょうね」という人もいる。石垣の くわしい地図(すべてのウタキが記されている訳ではないが)を調べても ウタキのそばにある学校は他にも多いようだ。市立図書館へ行って学校史 も少し調べてみた。大正期の校歌でも学校の所在を聖なる杜と結びつけて 謳っているのがある。
ウキタは本来、鳥居などなかったが、国家神道に<br>
包摂された戦時中にできた場合がある
ウキタは本来、鳥居などなかったが、国家神道に
包摂された戦時中にできた場合がある
 沖縄の民謡酒場というのは「歌手のだれだれさんのお店」というもので、 舞台の休憩時間には芸人さんたちも客のテーブルの方へ来て酒をくみかわ したり、おしゃべりしたりする。仲々楽しいし、私にとっては沖縄の文化 と社会に関する重要な情報源でもある。石垣の「芭蕉布」は鳩間隆志氏の お店。最近ではお嬢さんの鳩間可奈子さんが新進歌手として有名になって いる。その隆志氏にウタキと学校という話をすると「ウーン、今まで意識 したことはなかった。そういえば多いですね。実は私の母がツカサでして ……」という。氏の出身地鳩間島は民謡「鳩間節」で有名だが、今では人 口五十数人(戦後初期には七百人近かったらしい)で、一時は中学校も廃 校になった。島の存続を賭けて有志がはじめた里親制度は全国で知られる ようになり’02年度の小学校は4人、中学生は11人、その全員が里子 だという。鳩間氏の解釈では、「ウタキのそばで商売するのはいけないと いう感覚はあった。だから土地が空いていて、学校ならいいということに なったんじゃないでしょうか。」とのこと。たしかに集落の中心からは少 し離れた所が多い。だが便宣上のなりゆきというより「学校なら」という のがポイントではなかろうか。本土でも例えば私のルーツである阿波の山 村の小学校の創始期にはお宮の一角の建物(お祭の時は芝居の舞台となっ た)を使ったという。そういう例も多いのではないか。
 鳩間隆志氏によれば「次のツカサをだれにするかは公民館での寄り合い で決める」そうである。本土のお寺やお宮よりさらに住民にとって近いも の、親しいものなのだと思う。大浜中の先生によると今でもウタキでの年 間行事が地域の生活のリズムをつくるのに大きな意味を持つという。そう いう雰囲気の中で子どもは育つ。
 学校の運動会は今でも地域の人の総出の場となる。ある時、島の北側の 小学校に丁度来島中だったスター高倉健氏がお忍びでやって来た。運動会 で熱狂するオジイやオバアの姿を見て、高倉氏は次の機会に自分の出る映 画では、是非この学校でロケをさせてほしいと市教委だか何だかに申し入 れたという。おもしろいのは、氏がその学校の運動場にいた何時間かの間 に、あの大スターがそこにいるということに気づいた人が一人もいなかっ たということである。
 ある時わがゼミの学生がゼミ旅行の感想文で「沖縄では海が海してる。 空が空してる。そして人間が人間してる。」と書いたが、「地域が地域し てる」といっても良さそうだ。
 竹富島の白い道はきれいだが、住民が年二回、サンゴの砂を取って来て まくのだという。竹富には一般のバス・タクシーはないが「竹富観光・竹 富町」と車体に書いたマイクロバス(同業組合のバス)が走っている。1 人150円である。ヴィジター・センターで歩きくたびれて相談すると、 何と1人のために来てくれた。観光のまちづくりは時に採算を二の次にす る多くの人によって支えられている。
 沖縄ではバス・ガイドさんだけでなく、タクシーの運転手さんでも話好 きの人が多い。それも職業的にというより、自分もオシャベリを楽しんで いるという感じの人が多い。
      共同体的伝統と人権思想
 一般に共同体的なものは排他的になりやすいし、タテ社会にもなりやす い。しかし、沖縄では「イチャリバチョーデー」(一度会えば兄弟)とい う言葉で示される感覚がある。私も初対面の人と飲み歩くようになった経 験が何度もある。バス停前のテーブルについて休んでいるとそばの店の人 が一言もいわないで果物をポンとおいてくれたりする。買えというのでは なくて、食べてくれということなのだと同行の地元の人にいわれて
唐人墓
唐人墓
はじめて理解できた。どうも「閉じた共同体」ではない。他国から人が来 てくれてこそ豊かになった大交流時代からの文化と解釈する人もいるのだ が、どういうものだろうか。
 石垣には「唐人墓」がある。1852年、アメリカヘクーリーを運ぶイ ギリス船で、非人道的な扱いに耐えかねた中国人が暴動を起こした。一部 はすぐに処刑。残りは石垣島に下ろされた。島人は暖かく迎えたが、あと で来た英軍によって128人が処刑された。島人は墓を作った。今あるの は’71年に国際親善の史跡として建立された立派なものだが、判る限り で各人の名が記されている。こういう伝統は「開かれた共同体」というべ きではないか。西欧起源だけではない人権思想史を考える一つのヒントで ある。

 市川研究員は一週間ほど沖縄本島、小林委嘱研究員は鹿児島、源委嘱研 究員は国会図書館でそれぞれ資料検索・収集された。私は念願の大正区フ ィールドワークを早く始めたいと思っている。
(文学部教授)
 
△ 頁頭に戻る

障害児童の就学前療育訓練に関する実態調査日記

大島吉晴(委嘱研究員)

 障害者問題研究班では、障害児たちのより良き福祉施策の在り方を考 えるため、福祉処遇の出発点ともなる、0歳から就学までの障害児を対 象とする通園療育施設の視察を、昨年度の富山県下の知的障害児通園施 設と肢体不自由児通園施設に引き続き、本年度も実施した。今回は岡山 県倉敷市の同種の施設を、葉賀・大島が視察した。まず8月8日に知的 障害児通園施設である、社会福祉法人光明会「倉敷学園」に寄せていた だいた。学園は定員45名の施設であり、発達に何らかの遅れがある子 どもたち(言葉が話せない、歩けない、落ち着きがない、生活習慣の自 立ができていないなど)が、毎日通園バスで通い、保育や療育訓練を行 う施設である。学園では藤田園長以下、児童指導員、保育士、看護婦、 栄養士、運転員、嘱託医等のスタッフにより、子どもたち一人ひとりの 個性を大切にして、各自の発達段階に応じた個別のプログラムが作成さ れ、ご家族との協力のもと、適切な援助を展開し子ども達の障害の軽減 を目指した取り組みが為されている。また、在園児療育とともに、地域 の子ども達を対象とした「地域支援事業」として、療育相談、保育所巡 回、休日ディサービス等も行われ、地域発達支援センターとしての役割 も担っている。視察日も卒園児たちへのプール開放が行われており、子 どもたちが降園した夕方頃に訪問させて頂いた。猛暑でしかもお忙しい 中、主任の間庭先生が最寄りの場所まで車で迎えに来ていただき大変感 謝した。園長、主任からお話を聞かせて頂いた後、施設の案内をしてい ただいた。各所にこども達が安全に楽しく遊べる配慮が施されていると ともに、自閉症児にも分かり易いように、TEACCH法基づくカード などの視覚手がかりが各所に設置されていた。
 翌日の8月9日は、同じ倉敷市内にある肢体不自由児通園施設である 「倉敷市くすの
倉敷学園。TEACCH法の例、拡大
倉敷学園。TEACCH法の例、拡大
き園」を訪問した。くすのき園は倉敷市により設置され、倉敷市総合福 祉事業団により運営されている定員30名の施設で、浮須園長以下、作 業療法士、保育士、看護婦、栄養士、調理員、運転手等の常勤職員の他、 医師、理学療法士、言語聴覚士等の嘱託職員により構成されている。就 学前の肢体不自由児が親子通園し、診療、機能訓練、保育、言語訓練に より、心身両面の発達を促進することを目的とした療育が行われている。 通園保護者のためのレスパイトサービスも行われており、特定の日に親 子分離が為され、保護者の健康管理や家庭支援援助が為されている。地 域支援事業として、外来相談、巡回相談、重症心身障害児(者)通園事 業も実施されている。
 ご多忙の中、浮須園長からお話を伺った後、施設を案内していただい た。肢体不自由児施設のため、館内は全てバリアフリー化されており、 療育室や保育室では感覚統合訓練が出来る設備がみられた。保育や訓練 で用いるためのセラピーボールなど専門遊具の他、手作りの玩具も数
倉敷くすのき学園。玄関ホール。<br>
子供用の手すりが配置され、バリアフリー化されている。
倉敷くすのき学園。玄関ホール。
子供用の手すりが配置され、バリアフリー化されている。
多くあり、ほのぼのとした雰囲気が醸し出されていた。
 倉敷学園でもくすのき園でも先生方が多忙な中、丁重で詳しいお話を して頂き、感謝を残しつつ視察を終えることが出来た。
 
△ 頁頭に戻る

新研究員紹介

広兼道幸(総合情報学部助教授)

 このたび人権問題研究室の障害者問題研究班に研究員として参加 させていただくことになりました。現在、私は総合情報学部で基礎数学、 プログラミング実習、基本ソフトウェア実習などを担当し、安全・災害、 応用数学、情報などをキーワードとして研究を進めています。本学部ヘ 就任する前は、土木コンサルタント関連の企業に勤務していました。そ のせいか、情報、あるいは応用数学というキーワードであっても、ドメ インは土木関連の話題を対象としたものがほとんどです。
 最近、土木分野でもユニバーサルデザインという言葉を耳にすること が多くなりました。従来から提唱されていたバリアフリ一が障害の部位 や程度によってもたらされるバリアに対処することであるのに対して、 ユニバーサルデザインは「できるだけ多くの人が利用可能である製品、 建物、空間をデザインすること」と定義されていて、私自身も非常に興 味を持っているところです。このような話題は、人権問題研究室の障害 者問題研究班で研究されている話題と密接に関係しているものと思い、 私もこの研究班で活動させていただくことにしました。一口に障害と言 っても視覚、聴覚など様々な障害が考えられるし、私自身も幼少期に 交通事故に遭遇し、一時的にではありますが、障害を持った経験もあり ます。このように、誰もが障害を持つ可能性を秘めている中で、今後、 このユニバーサルデザインの理念は、物作りなど様々な場面に浸透して いくものと考えられます。私自身はこのユニバーサルデザインに関して 興味は持っているものの、いまだ未踏の分野です。ぜひ、これを機会に、 他分野の先生方と障害者問題について意見交換ができ、ここで得られた 成果を、土木構造物の設計など、今後の研究に生かしていくことができ ればと楽しみにしているところです。
 
△ 頁頭に戻る

編 集 後 記

雑古哲夫(文学部教授)

 新メンバーとして総合情報学部から広兼道幸先生をお迎えすることとな った。情報や土木のエキスパートを得、人権研の活動がさらに幅広く、充実 したものになることを願う。
△ 頁頭に戻る